裏切られた

信じていたのに


ほんとですか~(゜ロ゜;ノ)ノ



信じることにしがみついていること


あります


何を信じているのか


人それぞれですが


信じるものが少なければ少なくなるほど

信じる度合いが低ければ低いほど


自分の自由度がアップします




子育てでいえば


抱っこしすぎると、抱き癖がつく

甘えさせると、自立しない

なんて、ひと昔前の世代の方は

信じて疑いませんでした

だから、赤ちゃんを抱っこする人にたいして、

「抱っこぐせが、つくわよ」


なんて、熱心に嫌がらせなような

説教をしたがるのもうなずけます



ところが、いまの子育て方法は、真逆です


信じる、ことは、

「自分の本能に逆らって自律(がまん)」

になりがちです


信じること

誰かを究極に信じたり

崇拝したり


反対に

決して裏切るまい⬅かなり昔のフォークソング??笑


裏切る自分になるまい


どちらも、とても不自由そうです


裏切る自分にならないために、
(自分が何かを裏切ることに怯えている)


何かを究極に、信じこもうと


懸命になる、

自分を律することに必死になる



宗教やスピなどに、よく見られます



当然、疲弊していきます(/_;)


自分の本当の感覚を押さえ込んでいるからです


苦しくなるから、

「私はこんなに頑張っているのに!」

「みんな好き勝手しやがって!」

「ほら、私はこんなに信じているのよ!」

「信じているのに、認めてくれない」

と、なります


そうなると、

孤立していきます

孤立させられるのは、プライドが許しませんから

自らが、孤立を自作自演で

作っていきます

見事なシナリオです




家族でいえば


いい奥さんをやってあげてるのよ

感謝しなさい

と変化していきます


自分から、良妻賢母をかって出て

感謝しなさい


は、変(((・・;)???

家族は、律する人のご機嫌をとりながら

萎縮していきます


なんて、圧力がかかっている家庭は

よく見かけます

圧力鍋家庭Σ(゜Д゜)


早く煮たちそうですね・・・


それました( ̄▽ ̄;)



ともあれ、

頑張るところが違うような気がします

律することを

誰も望んでもいないのに


自分を律することを、がんばる

苦行を自ら作り出す


いやいや

誰も幸せになりません

もっと簡単に言うと、



はた迷惑




本末転倒


がんばるところが違う



それを、やめるもよし

継続するもよし


本人次第なので、誰も止めることはできません


それを止める術を持ってるのは


自分の本当の感覚だけではないでしょうか



気持ち悪いか、気持ちいいのか

シンプル


自分の心地よい感覚を選びとる力が

自分の方向を決めるのです


律するな!
感じろ!


おすすめします(*^-^*)


そのうえで、人を大切にする

ということができるのでは

ないでしょうか