「交換台と共に」      岡ヨシエ         | ヒロシマ平和公園の四季

ヒロシマ平和公園の四季

「ヒロシマのこころ」とは、報復の連鎖を断ち切ること。
広島平和公園の碑めぐりのガイドをしている"たっちゃん"が、
平和公園の四季を通じて「ヒロシマのこころ」を届けます。

$ヒロシマ平和公園の四季-アオギリ若葉
広島城公園内の被爆建物「旧司令部通信室」前でお会いした岡ヨシエさんの手記をアップします。その場にいた東京の私立中学校の生徒さんにお届けします。

「交換台と共に」
                                 岡(旧姓大倉)ヨシエ
昭和20年8月6日。 忘れることの出来ない日である。 私はその朝、前夜から勤務していたので、中国軍管区で朝をむかえた。 昨夜はいつになく多かった敵機の侵入のため、一寸ぼけた頭で朝食を済ませ、真っ青に晴れ上がった空をあおぎながら元気をとりもどして、交替迄の勤務に壕に入った。 今日は何時もよりおそい交替だなあと心の中で思って居る中に、8時頃より敵機の侵入である。そしてすぐ去る。
 “空襲警報解除” ほっとする気持も束の間、又敵機は広島方面に侵入。 8時15分警戒警報発令の伝令が飛ぶ。 私は警報を各司令部、報道関係に知らせる役目をして居たので、交換機に一度に数本のコードをさして相手をよんだ。(何時もの事なのでさほど緊張感はなかった。) 一せいに出た相手の方に、「広島、山口、警戒警報発令」を、言いかけた途端ものすごい紫色の閃光が目を射り、何か事故が・・・と思う瞬間、意識を失った。 2、3分もたったであろうか。 回復しかけた、意識のぼやけた目に灰色一色だけが目に入った。
 舞い上がった砂塵がしだいにおさまり、意識も完全にはっきりして次第に明るくなった部屋の中、私はすわって居た元の位置より2m位飛ばされていることに気づいた。 机は横だおしになり、いすはこわれ、ただごとでない光景を目で追う中に、まだうすぐらい部屋の隅に板村さんが手で顔をおおってしゃがんで居る。 思わずかけ寄ると彼女が手をはなした。 目のまわりに血が・・・。
 でもよかった、瞼にわずかな傷があった。 2人は机をざっと元にもどして外に出ようと隣の部屋に入る。 どの部屋も誰一人居ない。
 板村さんより一歩おくれて外に出た私は一瞬呆然となった。 今迄あった司令部も、あっちこっちの建物も、ないではないか。 ただの木屑と壁土が山になっているだけ。 私は思わず壕の土手の上にかけ上がった。 広島の街は・・・。 その目に映ったのはあまりにも残酷な瓦礫の街と化した広島であった。 赤茶けた想像することも出来ないむごい光景を目にやきつけながら私はその時初めて、「大変だ。」と血のさがる思いをしたのである。 下の方で兵隊さんが 「新型爆弾にやられたぞ。」 とどなって居るのが聞こえる。 私は元の部屋にかけ込んだ。 そうだまだ通話の出来る所へ早く連絡を、そう思いながら電話機を持った。 九州と連絡がとれた。 そして福山の司令部へ、受話機に兵隊さんの声が聞こえるのももどかしく
 「もしもし大変です。広島が新型爆弾にやられました。」
 「なに新型爆弾!師団の中だけですか。」 「いいえ、広島が全滅に近い状態です。」
 「それは本当か。」
 大きくわれるようにように響く声。 その内に火の手が上がったのであろうか。 壕の上の草がパチパチ燃える音が耳に入った。
 「もしもし火の手がまわり出しました。私はここを出ます。」
 「どうかがんばって下さいよ。」 と兵隊さんの声を後に受話機をおく。 再び外に出ると炊事場のあたりではもう火がまわりパチパチと木のはぜる音がする。 その音にまじり建物の底から女の人の助けを求める声が耳に入った。
 たまらなくなって水をかけようと板村さんとバケツをもって池の水を汲みに走った。 でも池の中は建物のくずが飛び散りほこりと砂でゴミすて場の様になって水は一滴もありはしない。 ああ駄目だ 他に出来ることは何か・・・、兵隊さんが下半身を建物の大きな柱にはさまれてもがいて居られる。 助けよう、出来るだけやって見ようと2人でかけ寄った。 でも組んだ様になってくずれている大きな柱は15才の少女が力一杯持ちあげても、ビクともしない。 傭員の松井さんがそこへ来て下さる。 3人は頑丈な棒を持って来て、力一杯柱をおこす。 少しずつ上がった。 身体をねじらせて兵隊さんも一生懸命はい出る努力をされる。 そして人一人を助けることの出来た喜び。 三人は手を取り合って喜んだ。 でもまだたくさんの人が・・・。
 2人は走るようにして大本営跡の広場へ上がった。 大本営のまわりの芝生には負傷された兵隊さんが4、5人おられた。 その芝生に火の粉が散ってきて火がつきそうになる。 大本営の後にあった兵舎から軍服をとって来て火のついた草をたたいてまわる。 そのうちに手に負えなくなった。 火の手はあちこちに上がりぐるりと火に囲まれてしまった。 幾百年の歴史を秘めた城門も完全に火に囲まれてしまった。 土手の草々も真っ赤になって、私たちはものすごい熱気にたまらなくなり、泥水となっている大本営前の池につかった。 パシパシに乾燥した髪、熱くなっている服、頭から泥水をかけても一寸の間にからからに乾いてしまう。
 今何時かしら?・・・ あの瞬間からどの位時間が経ったのかしらと思いながら仰いだ空は、けぶってどんより暗い。 その中に此の世のものとは思えぬ不気味な赤さにくっきりと太陽が見えた。 その時でさえ、父の顔も母の顔も浮かんではこなかった。 ただひたすらに国のためと教育され、職場でいつでも死ねる覚悟は出来ていたからであろう。 不意に、大粒の黒い雨が降ってきた。 それは、どろどろの、まるで泥水である。 ものすごい豪雨になって慌てて負傷者を壕に運んだ。 10分か15分か経つと、ものすごい雨が嘘のようにやんだ。 私たちは友達の姿を探した。 幼年学校に通じる城東橋までくると、浜岡さんに会った。 彼女は右手の関節の内側の皮が裂け、肉がはみ出て、関節は砕け、右手はぶらぶらになっていた。 なんという酷さだろう。 むしょうに水を欲しがる彼女! でも飲み水なんてどこにもないのだ。 赤ちゃんをなだめるようにしてみんなの行方を聞く。 「幼年学校の方へみんな行ったよ。」 というので、「後ですぐ来るからね。」 と念をおして橋を渡りかけて途中まで来たとき、後ろでドボーンという音。 とっさに私は浜岡さんでないかと思った。 どうか違うようにと祈る気持で走って帰ると、水を飲みたい一心の友は、堀に飛び込んですでに助からない状態で、浮かび上がっていた。 全身火ぶくれになり、目が潰れてしまい、手は、ボロが下がったように皮がはげてしまった可哀相な奥田さん。
 私は全身無傷の自分がみんなにすまなくてつらい気持でいっぱいだった。 お城の裏の方に逃げ惑っている友はいないかと、お城の下を板村さんと一周した。 時間も何時か過ぎ、木も草も焼けきれて、日も暮れかかった頃、一緒の班だった古池さんや、宮川さん、森田さん達が帰ってきた。 再会を喜びながら、他県から救護に来られた兵隊さん達と一緒に、おにぎりを作った。 そして負傷されても、割合元気な方達に配る。 私はおいしいと思って食べた。 そういえば朝から何も食べていなかった。 
 仮の収容所が幼年学校に出来て、大本営跡の芝生におられた兵隊さんも、そちらへ移された。 背中に20センチ程の棒切れが突き刺さった青木参謀は青ざめた看護兵の手当てを受けておられる。 大の男の兵隊さんが脱脂綿を多めに背中に当てて、力一杯棒を抜き取られた。 見る間に脱脂綿が血に染まって少々では足りない。色々な傷を見た。 脳天に穴のあいた兵隊さん、脈打つ度に中の肉が一緒にヒクヒク動く。 全身黒焦げで死んでいる兵隊さん。 空を睨んだまま、目をむいで死んでいる兵隊さん。 負傷した兵隊さんが地の底からうめくような苦しい声で、 「おかあさーん」 と叫んでいるのが暗い夜空に尾を引いて、まるで地獄にいるような思いだった。 疲れきって何時の間にか私は眠ってしまった。
 8月7日は朝早くから森田さん板村さん達と仮収容所へ看護へ行く。 太田さんもいた。 水野さんも向井さんも。 全身ひどい火傷のクラスメート、夏の暑さの為に、蛆がわいてそれを痛いと一言も言わず 「仕事をさして下さい。」 「私はいかなければ・・・」 「交替の時間です。」 と健気な友の声に私たちは涙が止まらなかった。 一日中看護につきっきりで7日の夕方が来た。 一人二人と兵隊さんが亡くなって行く。 友達四、5人で表の城門の方へ水を汲みに出かけた。 第一の城門わきに、まだ年若いアメリカ兵が横になっていた。 しきりに 「ウォーター、ウォーター」 と私達によびかける。 少し可哀相だけど、水なんかやれない。 私達の広島を、私達の同胞を、こんなにいためつけた国の人に。
 あちらこちらにまだ火が燻っている。 城門に出ると、やけにアスファルトが足の裏に熱い。 まだとても紙屋町迄行くのも無理であろう。 父や母はどうしているであろうか、帰れるものなら帰って元気な姿を見せて安心させてあげたいと思った。 夜、壕の中では仕事が続けられた。 まだ戦争は終わっていないのだ。 情報が入りそれを送らなければならない。 あちこちに手伝いにちらばっている為、夜の伝令も必要だ。 私は幼年学校への伝令をかって出た。 途中傷ついた人のうめき声にびっくりして走り出せば何かにつまづいた。 見れば死体である。 暗い夜道はただでさえ怖いのに、歯を食いしばって怖さに耐えた。 帰り道は2、3人の友と山中先生も一緒であった。 死の町に月が昇り真上にあった。それは細い上弦の月であった。
 山中先生が 「皆はあの月を何と見るか。」 と言われた。 私は 「上弦の月ですか。」 と尋ねた。みんなも口々に何か言った。 最後に山中先生が 「あれは荒城の月だよ。」 と言われた時みんな一瞬しんとなった。 昨日迄そびえていた五層の天守閣はもうそこにはない。 くずれおちてしまったその上に侘びしい月の光!! まさに荒城の月でなくてなんであろう。
 あけて8日。 友達は次々に亡くなって行く。 美しい純粋な気持を持って清らかな少女は最後まで仕事のことばかり口にして死んで行った。 竹槍を持ったまま即死に近い状態で死んだ西丸さんや佐藤さん服部さん。 歌を口ずさみながら全身火傷なのに美しい笑い顔さえ浮かべて、息をひきとった友。 日本刀を杖に夕やみ迫る空を、じっとにらむ様にして立っていらっしゃった美しい須川先生。 自分のシャツを引き裂いて生徒の看護に懸命につくされた、校長先生の慈愛と悲しみみちた姿。 生き残った私達のつとめは、続けられる限り毎年8月6日には集まって若くして逝った亡き友の冥福を祈り、思い出を新たにしたいと思う。
 最後に原爆の日に福山の司令部に連絡した兵隊さん小川国松さんに42年2月、東京で奇しき対面をしたことをつけ加えてこの筆を置く。