”いわゆる「大阪都構想」への住民投票”というものの意味と今後 | Tempo rubato

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アニメーター・演出家 平松禎史のブログ

今日5月17日は、大阪市を廃止して5つの特別区にする協定書案への投票日です。

このエントリーを書き始めたのは、まだ投票中の午後ですから、結果については予想を控えます。

今回の住民投票には、ある地域の部分的な構造改革にとどまらないことが、多くの知識人の間で論じられていました。
特に反対意志を示した100名を超す学者らの意見にもその意味の重大性を指摘したものがあります。
http://satoshi-fujii.com/informedconsent/

ページURLの「インフォームドコンセント」にご注目。
いわゆる「都構想」は、十分な説明がないばかりか、他の専門家から「危険だ!」と言われている薬を飲んだり、他の医師や専門家から「危険だ!」と言われている手術を、よく知らされないまま、やらせてしまうようなものです。

ですから
専門知識を持たない国民(市民)が選択する最低条件として、政策の中身が公正に伝えられ、賛否両論が公平に伝えられている必要があります。
でなければ、政治の素人に判断などできなくなり、勘に頼るか、政治家への人気投票にしかならないからです。

「7つの事実」を提示した藤井聡教授は様々な言論封殺圧力を受けました。
http://satoshi-fujii.com/pressure/
こちらのURLは「プレッシャー」。まさにそのまま圧力です。

上記100人以上の多くの在阪を含む学者らは、橋下市長のTwitterで口汚くなじられる迷惑や、橋下市長や維新が行った大学への圧力、国会での吊るしあげ、テレビ局へ藤井教授を出すなと通達した言論封殺…が、自分に及ぶかもしれないという恐怖を乗り越えて堂々と発信された方々です。


なぜそこまで反対する必要があるか? 2つの危険性があると考えます。
・いわゆる「大阪都構想」という、構造改革そのもの
・その決定手法

改革と決定手法に問題点を絞ることで、大阪市民の問題から、日本国民全体の問題へと考えを広げてみます。


特にボクが今回重要だと考えたのは、政策を国民に直接決めさせる、という行為です。


「改革」への欲求
作家の佐藤健志さんが先人の言葉をツイートしておられました。
もちろん、いわゆる「大阪都構想」に関連して、です。

その一部

”「戦前の普通の人たちには、軍部や右翼のテロが閉塞状況を打開するのを期待する心理がたしかにあった。〈ファシズム〉が〈楽な方へ変換〉してくれると思っていたのだ」 岩瀬彰「〈月給百円〉サラリーマン 戦前日本の〈平和〉な生活」(講談社現代新書)より。”

”「冷静に物事を見通していれば、まかり間違ってもやるはずのないことを、人は時にやってしまう。ズルズルと状況に押し流されたり、その場の勢いに乗せられたりするためだ」(エドマンド・バーク)”


岩瀬彰氏は戦前の日本、エドマンド・バークの言葉はおそらくフランス革命についてでしょう。

ごく一般の人々が閉塞状況を長く感じ続け、出来ることをコツコツ努力しても大して良くならず、耐えられなくなると、ついに「ぶっ壊せ!」という破壊的欲求が爆発します。

「誰が悪いのか!?」という「敵」探しに向かうでしょう。
それが集団化して拡大すれば、破滅的結果を導きやすくなります。

閉塞状況に疲れてしまい
ファシズム(思考停止で人心を束ねる)が、楽な方へ導いてくれると信じるようになり
状況に流され・その場の勢いに流されて集団化し

その結果、破滅的結果へと一般民衆導いてしまう。


「改革」は、時に大げさに「革命」と表現されます。

先人の言葉は今でもしっかりと通用するものなのです。

2015年5月17日
いわゆる「大阪都構想」を巡る様々な現象は、そのひとつとして歴史に残るかもしれません。

一般人が直接投票で政策を選ぶ意味
民主的政治、議会制・間接民主制といわれるものは
有権者が政治のプロにである政治家(代議士。現代では参議院議員も実体的には代議士)を選んで、立法と行政をやらせるものです。

大多数の一般人は日々の生活で忙しく、広域の行政や、法律を作ることはできません。
立法・行政には専門知識が必要で、過去の実例や、文化的な背景など熟知している必要があります。
一般人は自分たちの生活のための立法・行政を、上手くやってくれそうな人を選んでやらせるわけです。

言い換えればこうなります。

議会制・間接民主制は、もし失敗したらプロである政治家が責任を負う制度。

つまり、失敗したら次の選挙で職を失わせることができます。

そうならないよう、政治家は激しく議論を戦わせます。
政党や、派閥を作って熾烈な生存競争です。
でも、国民の命がかかっているのだから当たり前です。

私達一般人に、直接的な責任や立場をかけた論戦など負わされたらたまったものではありませんよね。

政治家の利益が国民の利益と重なるようにして、かつ、責任を負わせて政府の独裁的な行為の歯止めにするのが、議会制・間接民主制なのですよね。

さて
いわゆる「大阪都構想」は、国民が選んだ議員による議会で否決されています。

それなのに、住民投票が行われることになりました。
橋下市長の衆議院選参戦にからんで、それを嫌がった公明党が住民投票を承諾した経緯が報道されています。
政治力でねじ込んだわけです。

この場合どうなるでしょう?

大阪市を廃止して5つの特別区にする協定書、という政策を、住民投票で直接決めさせる。
ということになります。

つまり、失敗したら大阪市民の責任になります。
だって、議会は失敗の可能性を考えて否決していたんですから責任はないことになります。

おそらく薄々その責任の重さに気がついていると思います。
住民同士で言い争いになるのは嫌ですよね。
成功すれば良いものの、失敗したらどうしてくれるんだ?と言われたくないから、賛否について意思を示しにくいでしょう?
ボクら一般人はそれが当然です。
欧米と違って政治的な議論は好まないのが日本人です。

そのために議会が存在し、否決してたんです。
それを橋下市長は、役所を「敵」に仕立て、大阪市民が言い争いをしてギスギスするのも知ったことかと、政治力で住民投票へ持ち込んでしまったのです。

すでに西成区を巡って近隣住民の間で問題になっています。
http://www.asagei.com/35737


改革も住民投票も、どんな場合でも絶対やっちゃいけない訳ではないと考えます。

改革は、基本的なルールを保持できて、やり直しが効く範囲なら良いと思います。
根っこから一気に変えてしまう革命的な改革や、状況が変わっても変更できない改革は危険性が高いでしょう。

国民が直接的に政策を判断して有効なのは、顔が見えるような狭い範囲だろうと思います。
小さな地域社会のルール作りなら、むしろ良いことだと思えます。
しかし、50万人以上の政令指定都市や国政で同じことをやって良いのか、強い警戒感があります。

どんな方法でも、状況や条件によって良くも悪くもなり得ます。

十分な思考と、理性的な議論が担保されなくては、状況や条件を精査して選択することができなくなります。

全体主義状態が恐ろしいのは、空気・ノリ・気分・感情で突き進み、破滅するまで止められなくなるからです。

民主主義が全体主義に変貌する社会
大阪にとどまらず、この問題が日本全体に大きな影響を及ぼすのは、行政的な話だけでなく、民主政治の危機になりえるのでは?と考えるからです。

もし可決された場合、施行される2年後以降まで実態は見えてきません。
同じ手法が大阪や他の自治体で、国政で行われる可能性は否定出来ないでしょう。

閉塞状況にあえぐ国民の心理を利用して、敵を作り出し、住民(国民)投票で直接政策決定をさせることが一般化してしまうことが懸念されるからです。

理性的な思考を失って、束ねられること、空気に流されることに抵抗がなくなれば民主主義はそのまま全体主義へと変貌します。

自分に矛先が向かわないよう操作すれば、政治家にとって誠に楽な状況です。
しかし
国民にとっては疑心暗鬼、猜疑心で利己心が強まって、個々がバラバラになる恐ろしい状況を生み出します。
学者など知識人までが政治家に絡め取られ、国民の顔色を見て真理を追求しなくなればお終いです。
マスコミも騒ぎが大きくなれば視聴率が取れて新聞雑誌も売れて(゚д゚)ウマーです。
自分さえ得をすれば良いのだ、と。

理性的な思考が停止した社会。
国民総「大衆」化。

「イブセキヨルニ」
http://animatorexpo.com/ibusekiyoruni/
の、空木(腹の出たおっさん政治家)のいやらしいセリフのままになってしまうでしょう。

ちなみに
「大衆」には政治家も知識人もあらゆる専門家も含まれます。
この場合の「大衆」とは一般人だけのことではありませんのでご注意ください。



いわゆる「都構想」は、否決されても可決されても、現象として、今後の日本にとって重要な課題を提供したことになると考えます。

前回、最後のお願いと書きましたが、もう一度。

大阪市を廃止したくない方は「反対」を。
よくわからない場合は「反対」を。
政治家の責任まで負いたくない方も「反対」を。