昨年2023年11月22日に義父が緩和ケアへ入院したタイミングで認知症を発症した義母を1人に出来なくてダンナさんが義母との同居を決めて、成人した息子2人を独立させて(うちのアパートの近くにアパートを借りて息子2人は一緒に生活をスタートした)そして主人と私義母との同居がスタートしたおねがい 母親と同居するから!と決めたダンナさんの話に納得して私も覚悟を決めた爆笑 私が若くて健常者なら自由な時間が、無くなって嫌だったかもしれない。50代まで別居させてもらえていたことと(お互いに気を遣って生活するのは嫌だから同居しないでいい!と同居の申し出を頑なに拒んでくれていた義母照れ)息子たちが幼い頃義母には育児をサポートしてもらい心強かったから今度は私が義母の支えになりたい!義母が生きているうちに恩を返したい照れと強く思っていた。でも認知症と診断された義母との生活に不安が無かったわけではない。料理が出来なくなった義実家へ料理を作り主人がは毎日配達した。いつも整理整頓、掃除が行き届いていた義実家だったけど、いつからか片付けも出来なくなっていった義母。息子たちと家が別れて暮らすこと、近くとはいえ 別々に暮らすのも初めてで、寂しさもあった。でもどんとことがあろうと愛を選択しようおねがいと決めた💓義母がどんな状態になろうとハートを開いて受け入れようおねがいと決心した。私の愛する人をこの世に生み出して大切に育ててくれた人を私も大切にしようと思い同居がスタートした。義母も急に生活が変わり義父と離れて暮らすことにかなりストレスだったと思うプンプン最初のうちは『家に帰して』『○○のところ(娘)に連れて行ってちょうだい』と言っていた。その度に優しく義母に状況を話して聞かせた。せっかちな私からおっとりとこんな優しい声が出てくるんだと自分でビックリした。『これからはここがおかあさんの家なんだよ。少しずつ慣れてね。息子が赤ちゃんの時、おかあさんが私にしてくれたことの恩返しをさせてほしい。おかあさんはいつも優しかった。だからとても感謝してました。私はおかあさんとやっと一緒に暮らせて嬉しいよ』と伝えつ続けていると、義母もまたと嫁に苦労かけたくない!と言う優しさから帰りたい!と言っていたんじゃないか?とわかってきた。全ては愛なんだーと気づけた照れ『こんな不自由な身体の貴女にこんな婆の世話させてごめんなさいね』と労ってくれたり、『貴女は片手しか使えないのに普通の人より器用に料理するのね照れいつも感心してみています』と言ってくれたり『貴女が私にしてくれてることは一生忘れないからね、ありがとう。感謝してます』と柔らかなシワシワの手で私の動かない左手を包んで握ってくれる。義母の温もりも感触も私の麻痺した左手には伝わらないしわからないけど義母との空間は愛がいっぱいなのは肌で感じて心地よいラブ 私と義母との同居はギフトなんだと思えるようになったおねがい 義母と私の間には愛がいっぱいニコニコ私は義母から血を超えた愛を学んでいるんだど思える照れ 半身麻痺の私にはどうしても厳しい家事がある。ベランダへの洗濯物干しや主人のワイシャツへのアイロンがけは義母にやってもらえている照れ 『おかあさん、わたしには出来ないから助かりますラブありがとうございます』とお礼を言うと『役に立てて良かった。手伝って欲しいことがあれば何でも言ってね』と言ってくれる。たおねがい 義母はことあるごとに私に感謝の気持ちを言葉にしてくれて、私の働きを労ってくれる。認知症で直ぐにいろんなことをわすれてしまうし目が離せないけれど義母はいつも私を思いやってくれる。高齢で認知症にはなってしまったけど義母の優しい心は変わってなくて今も変わらず私を思ってくれるラブ私の目の前にいるのは主人と結婚した時と変わらない優しいおかあさんだときづいたラブ

こうやって少しずつ家族になって行ければいいと思えるおねがい86歳になる義母が後どれだけ生きてくれるかわからないけど義母がこの人生たのしかった。と思える余生を過ごさせてあげられたらと心から思っているラブ 私に愛を教えてくれて、言葉にして感謝を伝えることの大切さを教えてくれる義母との優しい時間が私はとても愛おしい照れ 短気な主人は私に言い放つキツい言葉を義母にも言い放つ。そんな時私は胸が切なくなる。『もうやめて!そんな言い方しなくていいじゃん。仕方ないでしょう?忘れちゃう病気なんだから』と主人と義母間に入って義母の味方をし、義母もまた私に厳しい言葉を放つ自分の息子のことを私に謝ってくれる。でもね、おかあさんわかっているよ。貴女の息子は言葉はキツいけどとても温かいハートの持ち主だって照れ貴女の育てた息子ダモン照れ おかあさんと義理とはいえ親子になれて良かったと思っています。これから何年一緒に暮らせるかわからないけれどずっと側にいるよ

仲良くしようね照れ