気学はおよそ1万年前に萌芽がある。それはユダヤ教、ヒンドゥ教が産声を上げるころに重なる。引き金は農業のスタートだった。それまでの人類は狩猟採取、山で獣を追い、海で魚を捕って生活していた。
このころの宗教は、内在する個人の潜在能力を外に出すことだった。そのため、身体に傷をつけて入れ墨とし、化粧を施し、鷹の羽を身にまとって自己の潜在力を発揮させようとする。これを「呪術」という。
農耕がスタートして大変革が起こる。農業は大自然の力、自分を超えた偉大な力を必要とする。人類は、初めて自分を超えた大生命を知るのである、これを「祈祷」という。そうして世界宗教へと発展する。
中国は違った。農耕によって知った大生命を「気」ととらえ、宗教と隔絶してそれを発展させていった。それが気学、易学だった。
伏義、文王、孔子と登場するなかで「気」の考えは深まり、思想・哲学として発展するようになり、戦国時代を超え、幾多の政変を経て社会変革の思想、技として発展していった。
そして「気」は物事の裏の成り立ち、すなわち結果に対する原因を探る技となって確立する。それを「裏成り」という。
人は常に出来した物事の対応に追われる。金利が下がれば売りか買いか。営業が減れば減産するか、営業努力に力を入れるか、新製品を開発するか。いつでも結果に対する対応ばかりを考える。それではいけないのではないか、と中国の思想家達は考えたのだった。
結果にはかならず原因がある。原因を探究し、それを除去すれば結果は自ずから上向く。それを「裏成り」としたのである。
しかし、数百年単位の時間が流れ、世の中かが複雑になってゆくに従って、鑑定を行う人間に知識が伴わなくなっていく。そして、「裏成り」は「占い」へとなり下がる。
僕は、「気学」や「易学」をもとに戻そうと考えている。世の中の事象をシッカリと把握し、原因を探って正しい回答を与えることが重要ではないのか。こう考えて「社会運勢学」を立ち上げた。今年からこうした活動を細々とスタートさせるつもりだ。