C級品の桃を投げ、我が身を守るピーチ姫。

C級品の桃を投げ、我が身を守るピーチ姫。

自分を出す練習のため秘密の日記。。
前世は米作り農民?

 
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意識がよく遠のくことが多かった。
おなかで暴れる赤ちゃんによって苦しくてたまらなかった。
きっと私が「なんでこんなしんどい目に合わないといけないんだろう。」

「wwoof生活は刺激的で楽しかったけど、今の状況ではしんどすぎた。」

とかマイナスなことばかり考えてたから、赤ちゃんがおなかの中で、ママを励ましているんだよってことだったのかもしれない。

それでもずっとおなかの右上をトントントントンけられ続けるので痛かったし、息苦しかった。
 

息子は妊娠が分かってからはずっと不思議なことを言い続けた。

 

「ママとパパの結婚式をお空から見ていたよ。ママはかわいかったし、ぱぱもかっこよかった。」

たまたまテレビで双子の未熟児の写真が写り、治療のために目をテープでふさがれている写真も写った。

息子はその映像を見て、急に

「僕も赤ちゃんの時に目をテープでぺったんされたな。」と言い出した。

私は驚いた。

確かに生まれたとき軽い黄疸が出て治療するときに、同じことをされていたから。

まだ生まれたばかりの自分の記憶のことを言い出すなんて、本当に驚いた。

 

それから私は息子におなかの中にいたときの記憶も聞いてみた。

「おなかの中は温かくて真っ白で気持ちよかった。」

出産のときのことを聞くと、

「すべり台でお外に出たかったのに、ママがカギを開けてくれなかったから出れなかった。」

と言った。

 

何度もおなかの赤ちゃんの性別を聞いてみた。

「もう女の子っていってるでしょー」って。

 

名前を決めるときも、一応何個かみんなで考えて話したけど、

息子が「◎◎ちゃん」がいい、絶対にそれしかないと言ったし、私もそう思っていた。
夫以外はわたし、息子、母もみんな同じ気持ちだった。

 

 

そんなこんなで妊娠後期突入。

ずっと苦しく食べれなく、早く外に出したい!!それしか頭になかった。

 

そんなときに、ようやく周りから「もしかして妊娠してる?」なんて気づかれるようになる。
仲の良かったママ友には言っていたけど。
 

それと急に周りから「3人目は?」と言われる日があった。
まだ苦しんでるのにそれはないでしょーって言ってやった。
夫も畑で他の農家さんに「3人目は?」と言われたと聞き、ありえないって腹が立った。

息子も「3頃に生まれる」とずっと言ってるので、嫌だけどひっかかる。
日にちなのか、本当に私は3人生むのかなのか?

 

息子は急に子供は3人がいいと言い出した。

私は怒った。今しんどいのに、ママはもう嫌だ!!って。

それから言わなくなった。

 

生まれ月に入ったころ、ほとんど生きた心地はしなかった。
イライラして夫にも子供にも八つ当たりしてしまうから、顔も見たくないといい部屋に一人引きこもった。
トイレに行くのにも廊下をはいつくばって移動し、膀胱が緩んでるのかおしっこが我慢できずに何度か失敗して情けなくなった。

たぶんこの時期に瞑想状態に入ってた。
ベッドに横たわり、息をするのも苦しい、おなかは一定のリズムで蹴られ続け、眠ることもできず、
気を失ってちょっと寝るというのが2週間くらい続いたと思う。

まとめて1時間くらい寝れたら良しな状態だった。
そんなときマタニティーハイみたいになり、

「あの時私を冷たくしてくれたから、今の幸せがある。私の望みだった田舎での子育てできている。ありがたいな~お礼が言いたいな」って思った。

 

彼に連絡を取ったのは私が結婚したときと、

私たちが作った桃を送りたいといい送ったとき。

翌年も桃を送りたいというと、実家に戻ったと言うから、実家に送ったとき。

それと息子を出産したという報告のとき、

出産後半年ほど経ち、東日本大震災のときだけだった。

それから4年近くが過ぎようとしていた。


もう連絡先が変わってるかもしれない、でも通じるかもしれない、勇気を出してメールをした。

 

すると返事が来た。

「メールも電話も携帯もそのまま。スマホはラインとかツイッターとか誘われるのが面倒だから持ってない。」

「もしかしてまだボーダフォン?」

「そうだよ。スマホ欲しいけどバッテリー持たないって聞くし、ボタン押せないし。」

「10年ちかく使ってるのにまだ使えるの?」
「普通に使えるから使ってるけど・・・」

とことんマイペースな彼に私は笑ってしまった。
そういうところが好きだなとも思ってしまった。

 

母との共同生活が始まり、妊娠が分かり、それと同時に始まったことがあった。

 

外国人を住み込みで家に泊めて、農作業を手伝ってもらうという生活。
http://www.wwoofjapan.com/main/index.php?lang=jp

 

英語ができないながらも一生懸命にお世話をした。
私は妊娠初期で悪阻もあり農作業は手伝わなくてもよくなった。
人はたくさん来てるし、その子たちの世話に徹した。
楽しかった。日本にいながらの外国に来てるかのようで、その日その日を一生懸命に楽しみながら頑張った。

春から秋まで1日も途切れなく、とっかえひっかえ外国人の子たちがやってきた。

 

悪阻で食べられない、においもつらい中、てんぷら揚げたり、チャーハン作ったり、

まるで寮母さんかなと思うほどの生活だった。
「今日は何人?8人?ベジタリアンは何にしよう?」とか大変だった。

 

母も手伝ってくれて助かった。悪阻中は本当につらかった。
お手伝いの子たちのお世話もしながら、私は車で5分の病院に点滴を受けに、意識が遠のくから休憩しながら30分かけて行った。
病院で静かに点滴を打ってもらい寝てる時が心休まる時間でもあった。


悪阻がなくなっても、食べ物が食べにくく、ごはん茶碗1杯を3食食べるのが必死だった。
味付けしたものが受け付けず、果物や野菜をそのまま食べていた。肉魚は食べていなかった。
このときベジタリアン体験をした。
体重は増えなかった。41キロだった体重が38キロになっていた。



そんな生活も秋でいったん終わり、母も仕事に出て、家族だけの暮らしに戻った。


 

 

そう思うしかなく絶望感が半端なかった。
体内受精をした前後あたりで、たまたまテレビで「お伊勢参り お陰年でご利益がある」と流れた。
ふだんはEテレしかつけていない我が家が、たまたま民法を付けた瞬間だった。
 

本当につらいばかりで、断捨離もしたし、どうしようもないなって時だったから、

「これはもう神頼みしかない!!」って思い、それまで宗教心ゼロだった私が初めて神社に行くきっかけになった。

お伊勢参りの本を買い、下調べをしてから行った。
自分のお願いをしてはいけないけれど、たぶんしていたのだと思う。

 

「どうか現状から抜け出したい」と。

 

アマテラスさまの前に行くと、風はほとんどないのに、のれんが空きっぱなしだった。
きっと歓迎してくれてるのだろうと感じ、目を閉じ、手を合わせた。
なぜか涙か止まらなくなってきた。なんかと一体になった感じがした。
心地よい風が当たった。
最後に子安神社で「子供が授かりますように」と願った。

それから1か月後、母が引っ越してきた。
それから数日後、息子が急に言い出した言葉に驚いた。

「ママのおなかの中で青い赤ちゃんがえーんえん泣いてる」

「あっ間違えた、ピンクの赤ちゃんやった。」とすぐに訂正をしてきた。
 

ピンクや青というのは保育園のスモックの色で、

男の子は青、女の子はピンクのスモックを着ているからだと思った。
 

それを私と母とで聞いてびっくりしていた。
確かに、体内受精はしたけど、そんなにすぐにできるものとは思っていなかったし忘れていた。
息子は知らないのに不思議だった。

妊娠超初期だったので、検査薬の早いやつでも反応しなくて、

でも息子の言うことが気になって、何度か検査してみると、うっすら陽性反応があった。
息子の言う通り妊娠していた。