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小谷野敦のブログ

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                             小谷野敦

 睦月正子さんから著書が送られてきたのは、二〇〇四年の春さきのことだった。もっともその著書は広田正子という名で書かれていて、私がその五年前まで務めていた浪速大学の、文学部とは別にできた比較文化研究科という大学院の博士論文を、浪速大学出版会から刊行したものだった。私は睦月さんと面識があったわけではないが、大学院へ入ってから博士論文を書くまでは七年くらいはかかるから、在籍中にはもういたのだろう。
 手紙がついていて、寄贈先を版元の人と相談して、矢田部先生も著書の多い人だから送っておいたらと言われたそうで、メールアドレスも書いてあった。ざっと著書に目を通したが、戦前のアメリカ移民についての研究で、まじめに書いた感じが強く伝わってきた。そこでメールを出すとすぐ返事が来た。
 睦月さんは隔意のない人で、すぐ親しくなった。その頃私が雑誌に書いたエッセイに、原節子をそんなに美人とは思わないという一節があり、『安城家の舞踏会』をさして、「原節子はでかい体をよじるし」と諧謔的に書いたら、睦月さんから抗議が来て、「私は縦にも横にもでかいです」と書いてあった。
 当初は、博士号をとったところだから、年下で、せいぜい三十代半ばだと思っていたら、実は一つ上で、長崎の短大を出て結婚し、滋賀県で主婦をしていたという。その頃、「朝日新聞」に投書をして採用されたのが、広田正子の名で載っているののコピーを送ってくれた。その後、浪速大学の法学部へ学士入学し、そこを出てから比較文化研究科の大学院へ進んだので、夫君は京都か大阪あたりにいたらしい。
 電話で話したら、声が澄んできれいだった。
 八月の末になって、睦月さんが東京へ来ることになり、会うことになった。当時私が住んでいた杉並区の下町みたいなところまで来てくれて、私のいきつけの中華料理店で二時間ほど話したが、なるほど「縦も横もでか」かった。
 睦月さんは、先に言ってしまえば、あまりに純粋な人だった。その純粋さの例はこれから挙げるが、私に会った時は、新聞から、私が好きだと言っていたピアニストの仲道郁代さんの写真入り記事を切り取っておいたのをくれた。ほかにもあれこれ「お土産」的なものを貰った。
 ところが、家へ帰ってよく見ると、仲道さんの記事の下に、「喫煙でインポテンツに」という記事があり、明らかにそこも一緒に切り取って渡されたのである。煙草を喫う私への嫌がらせみたいなので文句を言うと、「私も一応女性ですから(そういう話題を持ち出さないでほしい)」などと言う。自分で切り取っておいて何を言うのか。
 浪速大にいた時、ストーカーに遭ったことがある、と睦月さんは言っていた。さて、会ったあと数日、睦月さんはメールで、先生は私の顔をまともに見なかった、と文句を言ってきた。ストーカーに遭ったというからけっこう美人だとでも思っていたんでしょう、と言うのだ。
 私は子供の頃から、人の顔を見て話すのが苦手なのだが、その頃になって気づいたのは、男でも女でも、美しくない顔の場合はつい目をそらしてしまうということで、のち結婚した二度目の妻は、あなたは店員とかが美人でないと態度に出る、と言われた。だからそうなのかもしれないが、そう思っても睦月さんのように文句として言う人はあまりいない。彼女は男の友人から「君の目は爬虫類に似ている」と言われて絶交したという。
 私はその頃、前の妻と別れて二年がたち、新しい結婚相手を探し始めていた。今で言う婚活だ。当初、出会い系をやり始めたらサクラにまんまと引っかかって五千円くらいつぎこんだのがその秋のことで、その後、定額制のお見合いサイトで会った人から、当時話題だったSNSのミクシィへ招待され、軽率に知人を次々と招待した。
 睦月さんも招待したのだが、おのずとミクシィで話す相手は限られるようになるもので、私の知人のエッセイスト・新屋敷ゆずかが、睦月さんと私の話し相手になった。するうちに、睦月さんは、手製の物入れ袋など一式のお土産を、私とゆずかに郵送してきた。私に来たほうは、封筒の表に、「浪速大学修了生」と記してあり、それが、女性からの郵便物なので勘違いされないように、と言うのである。当時私は独身だったのみならず埼玉県の実家を離れた独り暮らしだったから、そう言ったのだが聞かない。
 ミクシィでのやりとりで、私とゆずかが大笑いしたのは、「矢田部先生は『八犬伝』について書いていて犬がお得意なので、犬をつけたら人の名前が覚えられるってことに気づいたんです」と意味不明なことを言い、
「犬・吉行淳之介」「犬・田中角栄」
 などと並べて見せた時で、まったく意味が分からず、実に変な人だと思った。
 ところが何が機縁だったか、睦月さんが突然怒って、
 「矢田部先生と新屋敷さんの有名人お二人で私を嗤っていたんですね。そういうことは分かるものです」
 と言いだした。このへんも分からないところで、笑われるようなことをしておいて「笑っていたんですね」もおかしいのだが、それは気づいていないのだろうか。
 見るところ、睦月さんは昔で言うアスペルガー症候群、今は自閉症スペクトラムというのだが、その種の発達障害だった。以前アメリカに行っていた時に、他人とのトラブルがひどいことになり、夫君がアメリカまで行ったという。
 当時は私も、東大や明大の非常勤講師をしながら、大学に再就職するつもりであちこちの公募に出していたが、せいぜい年に二、三件だった。しかし睦月さんは場所を選ばず、日本中の大学に年に百件くらい履歴書を送っていて、二年ほどして、北大に採用された。英語の教師としてだった。浪速大の教授で、私も知っているS氏が少し心配して、北大の人に「冗談がまったく通じない人だから」と言ったという。これも本人が言ってくるのだからおかしなものだ。
 しかし夫君は関西にいるはずだから、どうするのかと思ったら、何だか離婚するみたいなことを言い、「広田」ではなく「睦月正子」の名で就職した。
 私もゆずかも、純粋すぎる人という意識は持っていたが、先の「犬」みたいなことを言われたら笑うしかないのである。
 ほかにもおかしなことがあって、ミクシィでは、私は源三位入道と当初は名のっていた。いわゆるハンドルネームである。睦月さんは「mm」などとしていたが、ミクシィ上などでは、それが「源三位入道さん」などと「さん」づけで表示される。睦月さんはある時「柳家小」というハンドルネームにして「柳家小さん」になるようにしたりしていた。私もゆずかも大笑いしたが、これはさすがにユーモアだろう。
 いっぺん、睦月さんから繁くメールが来ていたことがあり、一通どうでもいいのをちょっと放置しておいたら電話が掛かって、
 「ああ、あなたのこないだのメール、ちょっと無視してたけど」
 と言うと、たちまち涙声になって、泣きながら、
 「矢田部先生、私のメールを無視してたんですかあうあうあう」
 と言ったから困惑した。
 睦月さんは、どういうわけか私が美人が好きだということにこだわっていて、私が結婚相手は岸本葉子さんのように頭が良くてたくさん本を書く美人がいいなあ、といったことを言っていると、
 「先生、いますよ、とてもたくさん本を書いている女の人」
 と言う。私が数日考えて、誰だれさん? と言うと、
 「すみません、小林カツ代さんです……」
 と言うから唖然としたが、これは睦月さん一世一代の冗談だったようだ。
 共通の知人がいることが分かったこともある。私の大学の児童文学サークルで一緒だった鍵谷益子さんは、美術史学者になっていたが、睦月さんと小学校だか中学校で一緒だった幼馴染だった。だからメールアドレスを教えると、夢中でメールを打ちあっている、と言っていた。それなら電話ででも話せばいいのにと思った。
 しかし、同じサークルにいたやはり長崎出身で、私の二つ上の友近雅史さんについて、睦月さんは、面識もないのに、変な子供だったと言ってゲラゲラ笑うのである。友近さんは顔つきも渋くて女子にもてたし、年齢の割に大人びた人だったから、それはおかしいなあ、と言ったのだが、鍵谷さんとの会話でそれを言われたらしく、「すみませんでした、知りもしない人のことを悪く言ったりして……」などと反省していた。
 睦月さんは大学では英語のほかに、熱心に生活上のことも教えていて、性教育めいたこともしていた。「今日はインポテンツの話です」と言うと笑う学生がいたので、「笑うようなことではありませんよ」とまじめに言ったというのが、睦月さんらしいと思った。(つづく)