「楽して生きる」ことと「楽しく生きる」ことは違うだろ | 坪井秀樹の起業実験日記 いくつになっても「理由なき反抗期」

坪井秀樹の起業実験日記 いくつになっても「理由なき反抗期」

反抗しているんじゃない。反抗期が続いているだけなのさ。

photo:01




やってみると分かると思いますが、口からトウモロコシを出すのは結構大変

なんですよ(笑)。

でも、問題は、そもそも、そんなことやってみたいか、やりたくないか、の

わけですね(苦笑)。


「好きなことをして生きる」とか「楽しく生きる」とか「人生を面白くする」とか

そういう言葉を、「楽して生きる」ということと勘違いしてる人がいるんじゃ

ないか?と思う人がいます。


「楽して生きる」というのは、例えば、毎日寝て暮らす、とか、何もしない、

とか、労せずして自分だけいい思いする、とか、何も考えずに責任も負わずに

ただ生きるとか、ゲームだけして生活する、まぁ、誰の役にも立つことなく

自分の為だけに生きることしか考えないとか、そういうことです。


同じ「楽」という言葉なのに、自分が楽をすることじゃないとすると、

「楽しく生きる」ということとな違いは何なのか?と考えた場合、私が最も

分かりやすかった違いの言葉は、「楽と快は違う」でした。


「楽」と「快」は違います。


何をした時に脳が「快」を覚えたかは人それぞれでしょうが、例えば、努力

して何かを達成した時とか、誰かに喜んでもらえた時とか、何か目には見えない

けれど大切なことに気付いたとか、人の役に立てて喜んでもらえたと自覚で

きた時とか、要するに、人というのは、自分以外の誰かに貢献できたと

自覚できたり、共感が得られたと自覚できたり、その過程の中で自分の人生で

大切なことを発見したと自覚できた時に、脳が「快」を得られるという、そう

いう生き物らしい。


私は自分以外の人の脳構造までは分からないけれど(自分の脳構造も知ら

ないけど(苦笑))、今までの経験則から言っても、そういうもんだと思って

います。


「快」を得るためには、「楽」していては手に入りません。


楽しく生きていそうな人を見て、「楽」して生きていると思ったら大間違いで、

私が知っている楽しく生きているなぁと思える人は、相当な努力や、決して

楽しいばかりではないこととも真正面から向かい合っているし、多くの難問関門

を勉強と実践の繰り返しでリスクをかえりみず挑戦しているし、そうやって

日々生きているのがよく分かります。


そんなことまでしなくていいのに、とこっちが思える程やっているので、何で

そんなことやってるのか聞いたり、その人の日頃を考えたりしていると、それを

越えてでも欲しい「快」があるというのが、私が今のところ認識している

共通点です。


「快」を得る為に、こっちからしたら苦労や努力とも思えることを、そんな

認識なしに勝手にこなして行ってしまっています。


そうなると、自分にとっての「快」とは何かを知ることが最も大きな問題で

あって、それは「楽」をしていて手に入るものではありません。


私が最もリスキーだと思える、あるいは焦ったり恐くなったりするのは、

自分の「快」が見えなくなったり、ブレてるんじゃないか?と疑心になる時

なんですね。

一旦は見えていると思っていた自分が見えなくなる時です。


自身を知るというのは、誰もが持っている人生のテーマでもあり、そして、

最大の難関でもあると思っています。


しかし、だからと言って何も考えない、行動しない、となるといつまで経

っても分からないので、私の結論は、今、目の前にあること・仕事を一所懸命やる

ということから段々気付いていけばいいと思っています。


よって、トウモロコシを反転させて口から出すことも必死でやってみる、と

いうこともやってみる訳ですね(笑)。


ちなみに、ここから「自身を知る」なんてことは屁のカケラもありませんで

したが(苦笑)、ほのかに「快」の実感は得ることはできました(笑)。


「快」実験の連続の中に、自身を知るヒントがあると信じています(笑)。




「楽」と「快」は違うんだよ。
応援クリックお願いします~。
↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓

買取王国・坪井副社長の販促実験日記「それって誰が嬉しいの?」






iPhoneからの投稿