可哀想に、そう思わないとやっていけないのね…

可哀想とか言われる事に萎える。
何かがえぐられる感じがする。

10月13日の朝、弟のだいすけが突然他界した。
死因は心筋梗塞。
倒れた場所がお風呂場だった為に脳挫傷で。

母が発狂したのを見た。
物凄い叫び声だった。
私はそれを止めもしなかった。
だって、それだけの衝撃が彼女の中にあって発散しなければ彼女も壊れてしまうから。
そして少し落ち着くと深く悲しみました。
感情は水です。
流さないと汚水になる。それは心の病気に繋がるのです。
沢山の涙でも流しきれない程でトイレも頻ぱんになっていました。

悲しいのも愛があればこそ。
母だけでなく私たち家族は泣きました。
だいすけの最愛の奥さんも。
友達も。
愛が無ければ悲しみも無いのです。
悲しければ泣けば良いのです。
泣く事が大事なの。



この出来事で感じたのは私が持っている死への感覚が大分人と違う事でした。
早くに亡くなるって不幸な事なの?
死は可哀想な事なの?

勿論、もっと一緒にいたかったという欲は私にもありました。
でも生と死は切っても切れない対で早い遅いで幸か不幸かが定まるものでも無いと私は思っているのです。

この感覚でいられるのはもしかしたら肉体から離れた世界のだいすけをサーチ出来ていたからかもしれない。

だいすけの一報の後に彼のエネルギーを探るとプツンと肉体のある物質の世界から切れてとても高い所を上昇していました。

普段はめんどくさいので、こういう事はしないから比べ様が無いのだけれど「直後にこんな高い所に行けるものなの?」という印象でした。

これだけでも何故か色んな情報が私の中にあって遺体は痛々しい状態だったけど痛みは感じていなかった事、だいすけが奥さんのお陰でとても幸せであった事、私たちには突然の出来事でもこれが彼の寿命であった事がわかりました。

母はだいすけの遺体が金色に輝いているのを見たり、彼女なりのセンサーでやはり寿命である事を察知していました。

そうして静かに私たちは悲しみとだいすけの死を受け入れています。