親の居場所の重要性を感じたのは、実はここ最近のことではなく、以前、困窮家庭の中学生の学習支援の仕事についていた時だった。
いわゆる子どもの貧困対策として、町が取り組む仕事の委託を受けていたわけだが、一つの家庭の中で子どもだけが貧困な状態にある、と言うのはもちろんなかなかに存在しない。
(ネグレクトや虐待で親が子どもからお金も時間も食料も奪うというケースは、それそのものが非常に貧しい。)
やはり、どの家庭にもそれなりの事情があり、特にひとり親家庭では仕事育児、あるいは精神や身体の障がいを抱えたままの育児で、しかも誰にも言えない悩みや孤独を抱えているケースに多遭遇した。
親たちが笑顔になれたら。
親たちがホッとひと息つけたら。
親たちがゆとりのある心で、
子どもたちに接することができたら。
結果として、子どもたちに引き継ぎかねない貧困や困窮を、大人たちのところで豊かさに転換できていれば…。
このことを考え始めてから、やはりどんな取り組みも子どもたちだけでなく、親たちも、トータルで家族全体の豊かさを支援する必要性があると実感し、その感覚は、子ども食堂の運営をするにあたっても非常に役に立っている。
現在、子ども食堂を運営する団体の多くは、子どもだけ、困窮家庭だけではなく、どんな世帯も、どんな世代も受け入れることをその運営に取り入れているところが多い。
子どもたちが外に出かけ、公園で遊んでいる間、大人たちは片付けを終えて、ひといきつきながらいつもの家庭では味わえない休息につく。
ジャンル分けはナンセンスだとも思うが、障がいを持った子どもの親の居場所を運営するNPOもある。
それぞれが、それぞれの場所でこれまでの社会では味わうことのなかった、本来の豊かさを感じられる場所。
それが居場所であり、学び場であり、地域コミュニティであってほしいし、その実現に取り組みたい。
ふと思い立ち、書かせていただいた。
強者と弱者
強者と弱者を分けてしまえるのは、その間に「普通の人」という枠があると、信じ込めてしまうからではないだろうか?
それを信じて、思い込んで、
それ以上でいたいとか、
それ以下にはなりたくないとか、
そんなヒエラルキー(階級・序列)の中で、少しでも上位に位置しようとしながらも…
責任からは逃れていたい。
評論家を気取っていたい。
そのくせ被害者ぶって、
加害者としての実害を自認しない。
そうなのだ。
僕たちは、自分自身の人生の当事者性を失っている。
加害者でも、被害者でもない。
ましてや強者でも、弱者でもない。
当事者として、自分の人生を引き受けていない。
成功も失敗も、誰かや何か、自分の思いではないモノサシではかるのではなく、自分としての目標を実現する。
成功も失敗も自分で引き受ける。
その覚悟をして生まれて来たはずなのに、それを忘れたフリをして暮らしている。
支援者だとか、被支援者だとか。
それすらも時に忘れてしまうぐらいに、自分の人生への当事者性を思い出さなくてはいけない。
Remember!