今日はユタの知念さんにお願いして、
実家のお墓に神を招くお祈りとお墓の入口を閉めるお祈りをした。

お墓に神を招くというのは沖縄特有の祈りの風習らしいんだけど、
葬儀屋さんを創業した父も現社長の弟も知らなかったらしく、
本来なら母の遺骨を収める前にしなければならなかった祈りを今日、
遅れてすることになったのだった。





お墓の入口を閉めるお祈りというのは、
家族の誰も母につられてお墓に入るようなコトにならないように、
祈りでもって入口を塞ぐためのもの。

つまり、不幸が続かないようにするための祈り。

知念さんによると母は、
為されるべき祈りが為されていなかったので落ち着かなかったのだそう。

けれど無事に祈りを捧げるコトができ、母の安堵する姿が見えたのだそうだ。

それはそれで本当によかった。
母が意識の世界に赴いて一歩ずつ歩みを進めるためには、
この三次元世界に生きる私たち家族の応援が不可欠。

それが日々の祈りであるわけなんだけど、
今日執り行ったような本格的な祈りも必要なのだ。

母が少しでも安心して心安らかにいることは、
生きてる家族にも大切なコト。

目に見えない精神世界のコトだから、
ユタの言うことが本当なのかは誰にも確認できない。

でもお祈りが為されて確かに、ワタシも父も弟もなんだかホッとしたんだよね。。。

その感覚だけで私たち家族は満足できた。






すべて滞りなく終わり、
知念さんをワタシが運転するクルマでご自宅に送るコトになった。

車内は知念さんとワタシの二人だけ。

このとき父と弟がいない空間で初めて、
母が知念さんを通して伝えてきた言葉があった。

それはあまりにも具体的な事柄であり、生前の母の秘事でもあった。

母の死後、計らずもその母の秘事を私たち家族が知ることになったのだけど、
それは家族の誰もが首を傾げて理解に苦しむようなものだったのだ。

特に父は、母の本意を測りかねていた。

でも知念さんを通して母は、その本意をワタシだけに伝えてきたんだ。





その母の本意というのは、
特にワタシにとってとてもありがたいものだった。

しかも母の意向をまったく知らなかったワタシだったのにも関わらず、
結果的に母の本意に添う考えをもっていたのだ。。。
これを知ったワタシは、心の底から安堵した。






生きてる人間同士では理解しあうのが難しくても、
意識の世界で魂の存在として生きる者同士では、すぐに理解しあえるコトがある。

それは頭で考えて理解しあうものではなく、
心で感じて理解しあうコミュニケーション。

その中心にあるのは思いやりだと、ワタシは思っている。

心の中に不安やおそれがあると、
それを解消しようとして独りよがりになってしまう。

でも不安やおそれにとらわれることなく常に感謝を意識していると、
努力しなくても思いやりが心にあふれてくる。






残念ながらワタシの実家の家族には、十分な思いやりがあるとはいえない。

ワタシも含めて、お互いの悪口を口にすることが多い。

それは裏返せば、家族なのだからもっと愛しあいたいんだという思いのはずなんだけど、
表現として現れる形はお互いの欠点や不満を口外するコトになっている。

頭が常に何かを計算していると、心は不安の雲に覆われるようになる。

良くも悪くも、自営業者であるということの性かもしんない💦





ワタシが実家で寝てる部屋は床の間。
リビングとダイニングに通じる部屋で、
ワタシの寝床はかろうじてついたてで顔を隠している程度。

プライベートな空間なんか1ミリもない。

知念さんを送って実家に戻り、疲れを感じたので寝ていたら話し声で目が覚めた。

ダイニングで弟と父が話している。

わざと大きな声でワタシに聞こえるように、弟が不満を口にしている。

聞こえないふりをして横になってると、いつの間にか寝落ちしてたみたい。。。

次に目がさめたのも話し声だった。

今度は孫家族がやってきていて、父が不満を口にしていた。

やれやれ。。。(・.・;)

ドアや壁で隔てられることなく、
完全にオープンな状態で寝てるワタシのそばで繰り広げられる悪口に、
正直心が冷たく、そして硬くなっていくのを感じた。

でも、これが現実なんだ。

これがワタシの家族の姿なんだ。





振り返ると、幼い頃からなぜかワタシは家族の中で孤立していた。

両親共働きだったので、小学1年生のときから料理を含めた家事全般がワタシの仕事だった。

子供として満たされない心を抱えていたワタシは、
思春期を迎えるとそのフラストレーションを爆発させた。

今、あの頃の気持ちが蘇っている。

いてもたってもいられない強い衝動。

怒りと悲しみ。そして寂しさ。

すべてを破壊したくなるような、
あるいは拒絶したくなるような気持ち。

そうだ。。。コレがワタシの家庭や家族に対する原点なのだ。







改めていま、原点回帰させてもらえてるコトに感謝。

このフラストレーションを今のワタシが感じられてるコトは、
過去の囚われから解放される素晴らしいキッカケになるような気がしてる。

子供の頃から仲のいい理想の家族像がワタシにはあったんだけど、
その理想を手放すときが来たみたいだ。

今こそ、ありのままの実家の家族を受け入れるタイミングなのだ。

理想の父と理想の母、
理想の妹弟と理想の会話。

ありとあらゆる理想を今、手放したい。

そして、ありのままの父と弟を受け入れたい。

それは仲良くなることを意味してはいない。

むしろ、ありのままに距離を置くことを意味するのかもしんない。

でも、それでいいのだ。

それは悲しいことでもなければ、寂しいコトでもないんだ。

そういう判断を伴ってしまうからこそ、
悲しくなるのだし、寂しくなるんだ。





2月3日から4月2日までの今回の母を看取る旅は、
終わってみれば実り多い毎日の連続だった。

家族の死。。。それも母親の死という家族にとって最大のインパクトである出来事を通して、
大切なコトをたくさん学んだ。

もしワタシと母が仲良しだったら、
母を失った悲しみを乗り越えるのは簡単じゃなかっただろうな。

でも幸いなコトに今回、そのような喪失感を体験することは無かった。
心から感謝しかない。

今回は計らずも、沖縄やコザの素晴らしさにも気づくコトが出来たし、
仲間や友達の素晴らしさも身にしみて感じた。

自分のやってるコトに寸分の間違いはなく、
このまま突き進んで行きたいと心から思えている。

子供の頃から心にぽっかり穴が空いてるのを感じていたけれど、その穴はもう存在しない。

そもそも心に穴なんか空いてなかったんだ。

過去が癒やされ、
そして現在が癒やされている。

ありのままの自分で、
それとして生きていく。

誰もワタシを止めることなんか、
絶対にできない。