父親から、母が危篤という連絡を受けて沖縄に帰ったのが2月3日。
この日はパーティあけで寝ないまま、飛行機に飛び乗ったんだっけ。。。

那覇空港から母のいるホスピスにタクシーで直行し、
2月5日の2時41分に息を引き取るまで、ほとんど寝ないで母のそばにいた。

そこから2週間は怒涛の如く、感情の浮き沈みが激しかったのだけど💦
やがて落ち着いたらデカい音をカラダ全部に浴びたくなりnekke2 に潜入 (笑)

そこでパーティ魂がムクムクと復活し(笑)
予定してなかったフード出店を刊行!

約1年ぶりに、沖縄のパーティ仲間たちと音空間を共有した。



2月22日 猫の日に犬猿@bpm


3月16日 VEGAN FOOD FEST@パークアベニュー


3月16日 夜はニライカナイ@bpm


3月20日 MUSIC HOUSE@OTOBOLA




ワタシにとって、パーティという空間は特別なもの。

デカい音で音楽を楽しむとか、
友達と一緒に酔っ払って遊ぶとかってのはパーティの単なる側面。

ワタシにとってパーティの本質は、意識の変容体験。
そのための音楽であり、酩酊であると思ってる。

つまり音や光、食やアルコールなどの要素が複雑に絡んで意識に直接作用し、
通常とは異なる意識を体験するコト=トランス。




トランスとは、次のいずれかのことである。

trance

ある種の精神状態(変性意識状態)を表す語。入神状態・恍惚状態などと訳される。
尚、「覚醒状態(awaken,awakening)」をトランスとするのは誤りである…が、ゲームを中心に誤用が甚だしい。

  • トランス状態
  • トランス(音楽):音楽のジャンルのひとつ

trans

trans-:「反対側」「向こう側」「変える」「超える」などの意味を持つ英語接頭辞。形態変化という意味の語「Transform」が有名。






子供の頃から意識というものに並々ならぬ興味があるワタシにとって、
パーティは意識の世界を体験できる素晴らしいもの。

フード出店するときには、
料理を手法にしていかにパーティに貢献させるコトができるかを念頭に置いている。

生活をかけて真剣にやってるのがパーティなんだ。

ところが実家の家族には、深夜に遊んでるようにしか見えないのが辛いところ💦

ワタシが真剣にのめり込んでやればやるほど、家族からの無理解が募る。。。

思えばこの悪循環って、子供の頃から全然変わらないんだよなぁ ^^;




「母が亡くなってから四十九日までの間は実家にいてほしい」
これは沖縄に帰るときに父親から言われた言葉。

その言葉のまま2カ月実家にいれたのはいいんだけど。。。
父と弟との関係は、悪くなっていく一方だった💦




父も弟も仕事で従業員と接する以外に、ほとんど誰ともつきあいがない。

友達もいなければ近所づきあいもない。

だからどうしても、独善的な人間になってしまっている。。。




独善(どくぜん、英: Self-righteousness)は、自分の信念・行動・所属が一般な他者のそれらよりも優れているという感覚から導かれた道徳な優位性の感情または表現である。 独善的な態度は、聖人ぶった、もしくは、独り善がりの態度とも呼ばれ、そのような態度の人は往々にして他の人の意見や行動を容認しない。





会社で社長として日々格闘してるのはわかるけど、
格闘してるのは社長だけじゃないはず。

誰もが日々、置かれた立場で様々な格闘をしながら一生懸命生きているんだ。

でも孤立した生活では、他者の格闘に気づく機会はほとんどない。

数十年という長い年月を社長として生きるうちに、他者と心を通わせるコミュニケーション能力を削ぎ落としている実家の家族にとってワタシは、
まさに自分勝手な人間そのもの。

ワタシのライフスタイルのどこをとっても、認めるどころか受け入れることさえ困難💦

今回の母を看取る旅でワタシは、
家族間の相容れなさを改めて痛感した上で、
この関係性を認めて受け入れることにした。

なぜなら、受け入れること無しに変容はあり得ないから。

相手の無理解は確かに心にめちゃめちゃ痛いものだけど、
痛いからって相手を非難していても痛みは消えない。

子供の頃から家族に理解してほしいと強く願っていたワタシは今回の旅で、
これまで不必要に自分自身を傷つけていたんだと完璧に理解できた。

握りしめ続けていた相手への願いを、
手のひらをひろげて解放することにしたんだ。

ワタシのコトを誰がどのように見做してもいい。

そう思えたコトはワタシにとって、祝福そのものだった。




空港まで見送ってくれたマサキとのーぶー



SPICE CURRY PALMYLAユウジさん&ヒトミちゃんご夫婦



VEGAN仲間のアンドレア&ジェス


パーティ仲間のヒカリちゃん&ヒロコちゃん


ジャングルのマイケル、つん、アラッキーさん


仲良しのクミ&カナ




ワタシにはありがたいコトに、友達や仲間がいる。

子供の頃から誰にも愛されてないと信じてたワタシだったけど、
今回の帰省で身に沁みたのは友達や仲間の愛だった。

みんながワタシのコトを丸ごと認めて、そして受け入れてくれてるのが本当によくわかった。

家族の中では落ちこぼれで居場所の無いワタシだけど、
外に出れば友達や仲間という家族がいて、
居心地のいいワタシの居場所を提供してくれてたんだというコトに気づけたんだ。

心にぽっかりと大きな穴が空いていて、
その穴は満たされるコトが無いんだとばかり思っていたけれど、
今回の帰省で友達や仲間からの愛をたっぷり贈られて、
ワタシの心の穴はすっかり満たされた。

満たされたどころか、
そもそも穴なんか無かったんだと気づけたんだ✨




思えば今回の沖縄帰省は、
母が亡くなるという出来事が引き起こしたものだったけれど、
2カ月という濃密な時間を経てワタシはまた確実に変容した。

沖縄の友達と仲間の愛が、ものすごくありがたかった。

そんな感謝の気持ちで満たされたワタシは、飛行機で泣きじゃくりながら東京に戻った。

母を亡くした時に泣かなかったワタシだけど、
沖縄の友達や仲間と離れる時に涙が止まらなかった。

この気持ちは、生まれて初めて体験するモノだった。




あんまり泣くと頭がぼーっとするものなんたなぁ。。。




羽田空港に下り立ったぼーっとしたワタシのアタマは、
いきなり現実として立ち現れた東京に強制的に覚醒させられた。

初めて利用したリムジンバスで新宿まで行き、
そこから高円寺駅まで電車で移動したんだけど、
沖縄とは何もかもがまるで異なる環境にアタマがバグりそうになった。

。。。沖縄で過ごした2カ月の間、
東京で1年生活していたのが夢あるいは幻だったんじゃないかとすら思えていたけれど。

新宿、高円寺と移動してる間に、
沖縄での日々が今度は夢や幻だったんじゃないかと思えてきた。





重い荷物をうんしょうんしょと踏ん張りながら持ち上げて階段を上がり、
魔女が使うような棒カギでドアを開けると、高円寺の昭和の部屋が目の前にひろがった。

何もかもが2月3日に出かけた時のままの状態で、そこに存在していた。

どこを向いても、ワタシの所有するモノがそこにはあった。

沖縄の実家でワタシが寝泊まりしていたのは、リビング。
壁で仕切られたプライベートな空間なんか1ミリもないところで、
自分のモノといえるのは服だけという生活を2カ月していたんだけど。。。



帰ってきたんだな。



なんだか知らないけど、
自分が帰る場所に帰ってきたんだと思うと涙が止まらず号泣した。

その涙は、沖縄で流した涙とは全然違うものだった。

このときの気持ちも、ワタシが生まれて初めて体験したモノだった。

ほんの3時間前まで一緒にいたマサキとのーぶー、
そして沖縄という島が、まるで過去のモノになってしまい、
これから体験するワタシの現実にはもう現れないというのがよくわかったんだ。

うまく言葉で表現するのは難しいんだけど。。。




過去と未来は存在しない。
あるのは今この瞬間だけ。

この真理が否応なしに迫ってくるように感じて、
泣けて泣けて仕方なかった。




どんなに愛しく感じている対象であっても、
どんなに愛でて大切にしようとする対象であっても、
今この瞬間に目の前になければ、
それは存在しないモノなんだということがよくわかった。

今目の前にあるものを愛する。

頭の中にある残像ではなく、
目の前にあるリアルだけをみてく。

何に対しても執着することなく。

この連続が生きることなんだと、改めて思っている。




想いが深ければ深いだけ愛しさがあるから、
切り替わった現実に持ち越してしまいがちだけど、それは執着でしかなくて。

切り替わる現実にしなやかに対応していくコトが、
つまりは幸せ。

切り替わる現実は否応なしに展開されるんだけど、
それもまた自分が引き起こしていることを思えば、
すべては完璧なんだ。




高円寺の昭和の部屋にいるワタシにとって、
もう沖縄は過去のモノ。

今目の前にいる人、
目の前で展開してるコト、
手がけてるモノ以外に現実はない。

アタマ切り替えるしかないんだ。




これが良いのか悪いのかわからない。

あるいは良いも悪いも無いのかも。

すべてはいずれ、自分の世界から消えていく。

だからこそ、この瞬間に思いっきり愛するべきなんだ。

駆け引きとか
取り引きとか
計算とかやってる間に
すべては過ぎ去っていく。

だからワタシは
自分の思うままに忠実でいることを選ぶ。