これまでamebloにて三国志に関する記事を投稿してきましたが、諸事情によりhatena blogへ移行します。
リンクは以下の通りです。
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https://kyoudan.hatenablog.jp/
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1/8(火)にJR大阪駅南ゲート広場にてランタンオブジェが展示公開された。今回はランタンの点灯式を見に行った。
「2013長崎ランタンフェスティバル」の知名度を広げるために長崎市とハウステンボス、JR西日本がタイアップで「光と灯 光福の街、長崎へ」と題するキャンペーンが1/8(火)よりJR大阪駅南ゲート広場にて始まった。大阪駅は1日80万人もの人に利用されているため、告知をするにはうってつけの場所であるようだ。そのため、そこで長崎ランタンフェスティバルで実際に展示されているランタンオブジェを展示することにより、その目的を遂行出来るそうだ。
前日の1/7(月)の深夜にTwitterにて「長崎市観光推進課(@nagasakikanko)」のツイートを偶然目にし、今回のことを知った。その内容を以下に引用する。
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【ランタンフェスティバル情報】
な、なんとJR大阪駅南ゲート広場にランタンオブジェが登場!登場は三国志の英雄関羽が愛馬赤兎馬にまたがったオブジェ「馬上関羽」!明日1/8(火)16:45~点灯式開催!「変面」披露も! #長崎 #長崎ランタン pic.twitter.com/CFKvYiaa
2013年1月7日 18:45
https://twitter.com/nagasakikanko/status/288235000837591042
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ランタンオブジェは馬上関羽、つまり赤兎馬に乗った関羽の像が展示されるそうだ。(※会場に行って分かったことであるが、馬上関羽の像しか展示はされていない。つまり他のオブジェは一切展示されていない。)それに伴い、点灯式と中国伝統芸である変面も行われるようだ。
さてキャンペーンの詳細である。
【ランタンオブジェ】
・馬上関羽(高さ3.5m)
【開催日時】
・1/8(火)16:45~17:20
【設置期間】
・1/8(火)から1/28(月)まで 21日間
【設置場所】
・JR大阪駅南ゲート広場
【点灯式出席者】(敬称略)
・長崎県観光連盟会長 野﨑元治
・長崎市市長 田上富久
・長崎商工会議所会頭 上田惠三
・関西大阪長崎県人会会長 塚本政治
・JR西日本近畿統括本部大阪支社次長 本田博己
・JR西日本大阪駅駅長 今川正和
【変面演者】
・姜鵬(キョウホウ)
※プロフィール
姜鵬 ,中国の山東省出身で、幼い頃から中国の川劇変面という演劇を学び、16歳の時にはすでに変面小天王と呼ばれ、現在は長崎領事館の中日友好関係文化交流活動に協力している。
短い期間であるが、JR大阪駅に立ち寄られる際は、一目関羽像を見てはいかがだろうか。
10/27(土)に国立国会図書館 関西館で金文京 教授(京都大学人文科学研究所)による「東アジアの三国志演義 」と題した講演会が開催された。
その講演は10/18(木)~11/20(火)まで関西館の地下1階総合閲覧室にて行われている「時空をかける三国志―日本・中国における三国志演義の展開 」と題する展示会に伴い、関連イベントとして開催されたそうだ。
さて、この講演会は事前登録が必要で、必要事項を明記した上で、メールまたはFAXで応募をしないといけない。先着順で定員が70名であった。
今回のレポは、金文京先生の講演会の要約と展示会についての感想を中心にまとめ、個人的な行動の記述もする。以下はメールで送られた、当日のタイムスケジュールである。後ほど順を追っいく。
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■当日のスケジュール
13:30~ 受付け開始(1階第1地研修室前)
14:00~ 挨拶・諸注意
14:05~ 講演「東アジアの三国志演義」
15:30~ 質疑応答
16:00 講演会終了
16:05~ 見学会(スライド上映による見どころ紹介・展示の見学)
17:00 解散
(NDL関西館展示小委員会からのメールより引用)
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地元のJRの駅から近鉄けいはんな線学研奈良登美ヶ丘駅まで移動。途中3回、天王寺、鶴橋、生駒駅で乗り換えを行う。登美ヶ丘駅の南にあるバス停から「光台一丁目」まで乗車する。このバスは1時間に4本しかないため、事前に調査することをオススメする。なお駅北側にはイオンがあるので買い物などである程度時間は消化出来る。
バスは一律200円ではなく区間料金なので、ご注意を。【登美ヶ丘←→光台一丁目】の運賃は230円が必要である。道が混んでいたこともあり、関西館までにはバスでは20分程で到着した。(自宅より片道2時間半・・・)
13:00。関西館内に入る。直進する通路と、地下1階に進む階段がある。会場へは直進し突き当たりを右に曲がった所にある第一研究室で開催される。受付は13:30からとされていたが、13:05からでも受付は可能であった。
会場はとても広く、2人掛けの縦約50cm横100cm机が36台(横3列×縦12列)、椅子が72脚が並んでいた。机の上には今回の資料であるプリント数種と、小冊子、手提げ状のポリ袋、番号の印字されている名札が置いてあった。担当者曰く「席はどこでも好きな場所にお座り下さい」とのこと。どうやらスライドを使用して説明がされると読み、正面向かって右から3番目、前より2列目の席を陣取る。そしてカバンを机に置き、図書館内の散策をしに研修室を後にする。
入口に入った立看板やエレベーター内など、いたるところに『時空をかける三国志』のポスターが掲載されてあった。金文京先生の講演会についての告知をするものと、展示についてのものであった。後者のポスターの内容は今後関西館に足を運ばれる方は是非参考にして頂きたいと思い、引用をする。
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「時空をかける三国志」見どころ解説
・職員が小展示の見どころを解説します
・定刻に入退館ゲート前にお越し下さい。(事前申込不要)
・時間は20分程度です。
・参加は無料です。
開催予定
11月5日(月)14:00~
11月9日(金)12:40~
11月12日(月)14:00~
11月17日(土)14:00~、16:00~
11月18日(日)10:30~、11:30~、12:30~、13:30~、14:30~、15:30~
11月19日(月)14:00~
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上記の通り来月中に複数回、展示資料について解説が行われるそうだ。遠方または学生にとっては、平日がほとんどのため参加するのは難しいと思うが、もし可能ならば土日にでも足を運んで頂きたい。
さてある程度散策が済んだところで、利用者登録をしようと思い地下1階の受付へと向かう。そこで清岡さん と朝霧さん に受付を挟んで出会う。彼らは上に行くと言い4階へ移動。こちらは手続きを済ませ、1階の研修室に書類を置きに戻り(中略)4階へと向かった。※4階に上がる際は、地下1階のエレベーターからしか移動出来ず、利用者登録または一時利用のカードが必要。
4階へ向かったが飲み物を飲み終わったお二人と一緒に、即刻地下1階へと引き返すのであった。そして1階研修室に移動し時間まで少しの間、twitterでNPO三国志フォーラム の発信した『ケロケロエース12月号 』についての情報を起床してスグ目にした教団が、関西館に来る前に購入したことや、朝霧さんが出張で関西にいらっしゃったことなど談話する。いつもKOBE三国志ガーデン でお世話になっているあきさん やふじやんさん 、サカイ(R・F)さんが会場へ到着されたりもした。
14:00。司会のツカダさんにより簡単な挨拶が行われた。用意されていた席はほとんど埋まり、空席は4席しかなかった。
14:01。館長の石川さんの挨拶が続く。国会図書館関西館の2002年からの経歴や活動についての紹介が行われた。小展示は年に3回しか開催されておらず、関西館の10周年とイベントとして初の小展示と関連した講演が今回行うそうだ。小展示『時空をかける三国志』に伴い、金文京先生の『東アジアの三国志演義』が初めてということである。つまり初めては三国志。これは嬉しい限りだ。さて話は金文京先生の紹介へと変わり、今回の講演内容の趣旨が話された。
14:08。再び司会にマイクが移る。手元の資料についての確認が行われた。資料は全部で7種類あり、①講演会のプログラム×1枚、②『東アジアの三国志演義』のレジュメ×3枚、③講師紹介×1枚、④講演会のアンケート×1枚、⑤バス停留所の案内×1枚、⑥『時空をかける三国志』展示資料リスト×1部、⑦国際シンポジウムの案内×1枚、計8枚と1部であると説明される。資料は全てA4サイズであった。そしてアンケートの回収と携帯電話の設定、また録音や撮影は関係者以外禁止とのことが伝えられた。
14:10。いよいよ金文京先生の公演が始まる。以下がレジュメの見出しである。
一.元代の『三国志平話』
・建安虞氏刊『三国志平(評)話』
・建安書堂刊『至元新刊全相三分事略』
二.明代の『三国志演義』
・嘉靖本『三国志通俗演義』24巻
・葉逢春刊『新刊通俗演義三国志史伝』10巻
・成化本説唱詞話『花関索伝』
・南京万巻楼周曰校刊『新刻後世古本音釈三国志通俗演義』12巻
・福建系統の『三国志伝』20巻繁本
・福建系統の『三国志伝』20巻簡本
・明台における『三国志演義』の性格
・満州語訳『三国志演義』
三.朝鮮の『三国志演義』
四.日本の『三国志演義』
三国志演義は「どのように生まれ、どのように広まったか、どの様な特色があるのか」が今回の講演の軸であり、「今まで講演した中で今日が一番専門的な内容である。」と金先生。三国志演義は世界各国で翻訳され好まれて読まれているが、特に東アジア(日本や朝鮮半島、ベトナム)などの漢字文化では古くから関係が深い。中国以上に三国志の文献が現存するそうだ。
まずは羅貫中についてである。彼が三国志演義を"書いた"とされているが、その証拠がないそうだ。また"書いていない"とする証拠もないので、演義に「羅貫中」と記述があったので、取り敢えず作者とされている。また彼は14世紀末に作成したが、それ以前に元となる『至治新刊全相平話三国志』(※至治・・・1321年~1323年)という歴史小説が残っている。元が国を治めていた時に出来たこの小説が一番古いものである。ちなみに「全相」とは「全:全部、相:絵がある」ということで全てのページの上半分には精巧な絵であり、下半分が文章となっている。これは「連環画」の原形であるそうだ。「平話」とは「評」の言偏が省略されて「平」と記述されている。つまり「へいわ」ではなく「ひょうわ」が本来の形とのことだ。さて「平(評)話」の意味は「歴史事実に対し評論をしたり話をする」ということであろうと考えられている。
また今の三国志の原形であっても大きくと異なる部分があるそうだ。
①物語の始まりが違う。現在広く読まれている三国志は後漢末の「黄巾の乱」から始まり桃園結義へと続く。一方平話は「冥土の裁判」つまり劉邦や韓信、彭越と英布が死後、冥土で裁判を受け劉備や曹操、孫堅、献帝へと転生するところから始まるのである。平話はシリーズものであるのが理由だそうだ。そもそも平話は三国志だけではなく、周や秦、前漢など各時代ごとに平話があるそうで、それらは内容が繋がっており前漢平話で活躍した劉封が、死んで生まれ変わり三国志平話の冒頭に登場するのである。
②物語の終わりが違う。現代の三国志は蜀、魏、呉が順に滅び「晋」が三国を統一して終わるが、平話では晋王朝を匈奴の劉淵により滅ぼされ漢王朝が復興して終わる。蜀が滅んでBadEndではなく、漢王朝を復興させてHappyEndとなっている。これは蜀が好きな人にとっては嬉しい終わり方に違いないだろう。個人的にもこの終わり方を採用して欲しいものである。劉淵が漢王朝を復興させたのは歴史的事実であるが、彼は劉備と血縁関係がなくさらには漢民族ではない。匈奴の遊牧民族だそうだ。この遊牧民族は漢の時代に政略結婚をしていたので、劉姓を名乗っていたそうだ。つまり彼の復興させた漢王朝は劉備の思い願っていた漢王朝とは異なる。しかし平話には劉淵が匈奴出身であるということが書いておらず、子孫の劉淵が漢王朝を復興させたとあるらしい。このことにはどのような意味があるのか金先生は以下のことを仰った。
平話が出た元王朝はモンゴル人が中国全土を支配した。このことは漢民族には相当ショックであったので、知識人達は武力では敵わないので、文化で勝とうと考えたそうだ。モンゴル人を中国の文化で中国化させ、モンゴル王朝を歴代の中国王朝を継承しているという風に働きかけた。元が滅ぼした宋(南宋)は漢王朝を深い関わりがあったため、モンゴル人は異民族であるが、中国の正統な王朝を継承した、としたいがために、異民族の劉淵を利用して歴史的に辻褄を合せたのではないかと考えれるそうだ。民族を選ぶのか、中国の正当性を選ぶのか、ということがこの劉淵に反映されているとのことである。
なぜ劉淵による漢王朝復興ではなく、晋王朝統一で三国志の結末を大きく変えたのか。それは明王朝はモンゴル人を追い出し、漢民族が作った王朝だからである。異民族が漢民族の正統を受け継ぐ事は受け入れられないからである。匈奴の劉淵は漢王朝を興すのは受け入れられいが故に結末を変えざるを得なかったそうだ。
『至治新刊全相平話三国志』は中国にはなく日本にしかない。それも日本国立公文書館内閣文庫にしか所蔵されていないそうである。タイトルが異なるが同じ内容の本があるそうだ。それは『至元新刊全相三分事略』であり、これもまた中国にはなく日本の天理図書館にしかない。面白い事に、三国志演義以前の古い小説は日本にしか残っていないのである。それもどちらも中国には残っておらず、世界でたった1つしかない。平話の方が三分事略より絵が精巧で字が綺麗に書かれいる。逆に言うならば三分事略の絵は大雑把で、誤字が多い。つまり平話の後にそれが作成されたとされる。
中国には平話や三分事略は存在していない。どちらも日本にあるという事は先述の通りだ。しかし、それらは日本にあるものの、"読んだ"という明確な記録はまだ見つかっていないそうだ。だがそれらについて言及した最も古い記録が残っているとのこと。それも中国には残っておらず、今度は14世紀末の朝鮮の高麗の時代だそうだ。それは『老乞大』に記述がされている。当時の朝鮮は元の属国であったため、商人は元に商売を行なった。『老乞大』とは朝鮮で使用された中国語の教科書である。老とはよく知っているを意味し、乞大とは中国を意味する。すなわち『老乞大』とは中国通と意味するそうだ。その内容で北京の本屋で本を購入する場面があり「三国志評話」の名が述されているのである。また中国では『三国志通俗演義』(1522年)の序文に「三国志評話」と記述されている。
つまり最古のテキストは日本にあり、最古の記述は韓国、という奇妙な関係である。
話は人物へと移る。平話における劉備の武器は二刀流で、関羽は青龍刀を、張飛は槍を持っている。中国では二刀流は女性が扱うそうだ。京劇でも女性が使うそうだ。演義上の劉備はすぐに泣いたり慌てふためいたりと女々しい人物のように描写がされているので、それが原因なのかもしれない。市川猿之助のスーパー歌舞伎『新三国志』には劉備が女性という設定だそうだ。
『嘉靖本』について。挿絵が一切なく、声点がある。声点とは四声を表し『種』に声点があれば名詞の種なのか動詞の植えるか意味が変化するそうだ。声点が付いている書物の多くは宮廷で出した多く、嘉靖本は明の宮廷が出した本がもとになっている可能性があるそうだ。
※赤○が声点
1548年に出版されたであろう葉逢春刊『新刊通俗演義三国志史伝』。こちらは嘉靖本と異なり、挿絵がある。この本はスペインのエスコリアル王立修道院図書館に収蔵されているそうだ。おそらく大航海時代のお土産に商人が国王へ献上したもので、異国の文化を絵を通して知ることが出来るので以外にも重要視されたとか。この本は今で言う絵本と扱われ、子どもが読むものであると軽視されていたため、これも中国国内には残っていないそうだ。
『花関索伝』について。1967年に上海の墓より出土する。まずページ構造は平話と同様で、上に挿絵があり下が文章となっている。この花関索伝は三国志を考える上で重要な物語である。関索は三国志演義を翻訳した小説でしか登場しておらず、謎の多い人物である。彼は南蛮遠征の際に急に登場し、そしてスグに作中より姿を消すのである。金先生曰く、「関索が登場するとお分かりの方は相当の三国志ファンである。」ご存知の通り彼は架空の人物である。しかし彼を主人公とした物語『新編全相説唱足本花関索認父傅』が存在する。こちらも全相と言うことで挿絵が上半分にある。「説唱」とは語り物(セリフと歌)で浄瑠璃の様なものである。ちなみに内容は桃太郎や金太郎といった勧善懲悪で盗賊や敵討ちを行う英雄叙事詩。途中までは三国志とは全く関係のない話であるが、後半からは三国志絡みとなるため、関索伝が三国志演義と何らかの関係があるとされ、研究が進展したそうだ。
明末期では三国志平話や演義以降に様々な類似した小説が多く広まる。本屋が特色のある三国志演義をそれぞれ出版したことに競争が激化する。そこで余象斗という本屋は『按鑑比点演義全像三国志』と「自分の店が出した三国志が一番いいぞ!!」と宣伝文句を表紙に記し、他店の三国志演義との差別化を図ったりしたそうだ。また周曰校(しゅうえつこう)が出版した右のページが文章で左のページが挿絵の入った少し高級な本も出回ったそうだ。また以下のような特色をもった本もある。
『新刻湯学士校正古本按鑑演義全像通俗三国志傅』。これは湯学士が校正したとされており、学者が分かりやすく、挿絵もあるということを宣伝にしているのである。しかしながらどうも疑うべき事があるそうだ。我々は作文を書く際は、1列目にタイトル、改行をしてして氏名、改行して見出しまたは本文を書く。この当時の中国も同様に記述をしなければならないが、湯学士本は見出しの下に「校正:湯賓尹(とうひんい)」と名前が記載されている。これは明らかに名前を後から挿入したものではないかと、見て分かる。ちなみに湯学士こと湯賓尹は科挙の成績が会試では主席、殿試では二番と非常に優秀である。つまり彼は権威がある。そのため本屋は売る方法として、勝手にその人の名を使用し、お墨付きを貰ったことにしたそうだ。
何故か北京図書館にはこの湯学士本が2種類収蔵されているそうだ。日本には国立公文書内閣文庫と天理図書館に似たような本が収蔵されているのと同様である。1つは上記の『湯学士』が校正したものであり、もう1つは湯ではなく『楊学士』と記述されている。同じ本でも単なる誤字かもしれない。しかしながら実際に楊守勤(ようしゅきん)という人物が実在していたそうである。彼は殿試を主席で合格しているため、こちらの可能性も否めない。そのためどちらが先でどちらが後なのか断言は出来ない。しかしどちらも本屋による仕業であることには変わりがない。
三国志演義以外に2種類も科挙で優秀な成績を修めた人物が監修したとされる本が現存しているそうである。三国志演義と合わせると4種類ということになる。このことにより三国志は科挙の受験生を主な読者とした受験参考書のジャンルの本であったと考えられるそうだ。この時代三国志と並んで人気のあった小説は『水滸伝』である。
しかし水滸伝は科挙のトップの合格者による批判は行われていないが、李卓吾など異端の思想者が批判をする。ところが三国志は少なくとも科挙の受験で合格した人物が監修している。さらに三国志だけが宮廷より出版も行われているので、その点を踏まえると別格である。しかし人気になるにつれ、水滸伝や最遊記と同格になっていくのである。三国志や水滸伝はどちらも人気の本である。上が水滸伝、下が三国志が印字された合刻本までもが登場するようになる。この場合は下に記述されている物語が格上扱いを受けるそうである。
さて話は1650年出版の満州語訳『三国志演義』に変わった。満州語訳の底本は嘉靖本で、おそらく明の内府本が利用されたと思われる。三国志が外国語に翻訳された初めての小説である。何故満州人が三国志を翻訳したのか。三国志が当時有名な小説であったことが1つ。もう1つが明が滅んで清を建てた時、モンゴルは中国側なのか、それとも満洲に付くのかという動向を操作するためである。モンゴルの勢力は強大である。そのためモンゴルを手懐ける策として三国志を利用。「満洲人は劉備、モンゴル人は関羽であり、義兄弟だ」という逸話賀邵会された。ただし信憑性はないそうだ。
※11/2(金)追記