抱っこ





「この瞬間が最後かもしれない」

そう思った瞬間、

何気ない会話、

向かい合った食事、

並んで歩く時間、

すべてが愛おしく、

ありがたく、

尊い時間に生まれ変わる。

この瞬間は、今しかない唯一無二の時間。

思いに集中して大切にしてみて。

(拙著 ダイヤモンド76ページ KADOKAWA )






昨日は、モモの火葬の日。

物質的な身体とのお別れでして、もうクリクリした目、

短くてかわいい足、美しくて柔らかな毛並みが

見れないと思うと、本当に寂しいものですね。





家に戻ってきたら、どっと疲れて(泣き疲れ)1時間ほど寝ました。

目が覚めたら、朝なのか昼なのか夜なのかまったく分からず、

『ん?今何時?今日は何日?』とか考えること、1、2秒・・・

いつもの癖で、起きてベッドの下のモモが息しているかどうか

確認しようとして起きたら、「あ、モモは死んだんだ・・・」

との現実に戻り、もうこの確認はいらないことに気付きました。

なんだかさみし~の~・・・





ここからまずお伝えしたいことがあります。

まずは、皆様への感謝です。

昨日はたくさんの追悼コメント、ありがとうございました。

500人以上の人々から、モモへの温かい言葉を頂きました。

長い間、当ブログと共に、モモを愛してくださったこと

改めまして、心より感謝申し上げます。





そして、過去に、2度3度、モモの命が危険にさらされたとき、

祈りと遠隔ヒーリングなどで、モモを救って頂きましたことも、

本当にありがとうございました。あのときは劇的な回復をしました。





ここから伝えたいことが幾つかあります。

延命や悲しみを乗りこえるため、次のペットを迎えること、

ペットを検討している方へのメッセージ、などなど・・・





今回、病院に毎日通って、あの小さな腕に、

何度も何度も何度も針をさして点滴で命を長引かせることは

人間のエゴではないだろうか?

自然に逝かせるのがいいのではないだろうか?

と、悩みましたが、モモは生きることに執着していたようです。

本当はもっともっと生きたかったように感じました。





延命は飼い主に任されていますが、しかし私が思うに、

それはほとんどの場合、ペットの意志はちゃんと飼い主に

伝わっていると思うのです。





延命をしなかった、という選択でも、

時間や金銭的なことで出来なかったとしても、

そして、私のように延命の選択をしたとしても・・・

どの選択を飼い主がしたとしても、

それはペットもそれを理解している、ということ。

死に目に会えなかった・・・と自分を責めたくなるのもわかりますが、

実は、ペットはそれを選んでいるようです。自分の逝き方を。

いずれにしても、結果がどうであれ、飼い主は

罪悪感を決して抱かないで欲しいと言うことです。





そして、ぜひ私が伝えたいと思うことの中に、

ペットロス症候群に関してです。

伝えたいことは・・・





悲しんでもいいですが、

悲しみに飲み込まれない


ということ。





飲み込まれる、というのはもう、

自分の意志や感情をコントロールできなくなるぐらい、

悲しみにすべてを奪われてしまうことです。





すべてというのは、生活も心も身体も、思う通りに動かない、

もう、世の中がモノクロにしか見えない、もう、何もしたくない、

という状態にならないようにする、ということ。

それをペットは望んでいないから。





そして、ペットを飼う時のことについて思うところがあります。

あなたは、ペットを飼う時に、

ペットが死ぬことを考えますか?


私は当然考えてから飼います。





ペットは長く生きたら、20年です。

20年間、何があっても、手放さない、世話を最後までする、

命に責任を持つ、という決意の元に飼って欲しいと思うのです。





例えば、ペットと一緒に過ごしている中で、

新しい彼氏が出来たけど、彼氏は犬が苦手。

犬を手放さなければ、結婚できない、別れる、

・・・と言われたら、当然、彼よりもペットをとる、

くらいの責任を持つ、ということ。





引っ越さなければならなくなった。

しかし、そこはペットが飼えない。

だからと言ってペット手放すということがないように、ということ。

飼えるところを死ぬ気で探しましょう。もしくは、

引っ越し諦めてください、くらい言いたいです。

仕事上だったら、その仕事、ペットのために諦めて

他の仕事探して欲しい、と言いたいです。





ペットを飼ったら、赤ちゃんが出来た。

もう、ペットはいらない。・・・なんてことがないように。

ペットはおもちゃじゃないので、赤ちゃんが出来る可能性があって、

ペットよりも赤ちゃんを取るくらいなら、

ペットは最初から、飼わない。

そのときの感情と衝動でペットを飼うのはやめよう、

というくらい責任を持って飼うのです。





今書いたことに当てはまることをした人々を

追いつめたいわけでも、罪悪感を抱かせたいわけでもありません。

もし、そういう状況になったことがあるなら、次に飼う時は、

命に責任を持つことを約束して飼って欲しいということ。

または、無理なら飼わない、という選択をして欲しい、ということ。





途中でペットを捨てたりしたら、

その人に、化けて出るよ?

・・・この私が(笑)





そして、いつか必ず別れがきます。

「別れなんて悲しいから考えない!」ではなくて、

いつか来るそのときのために、日々、その子との時間を

大切に過ごしましょう、ってこと。





時間と命は有限です。





そして、これは悲しみが少しずつ癒えてきたあとの話ですが、

ペットと別れたことの悲しみよりも

ペットよりも、自分が長生きしたことを喜びましょう





どういうことかというと、ペットとの別れが嫌だからといって、

自分がペットよりも最初に死んでいいでしょうか?

愛するペットがこの先、どうなるか分からぬまま、

自分が最初に死んでいいでしょうか?





そう考えたら、ペットがいなくなった悲しみは当然あるものの、

自分がペットを、最後まで看取れたことを喜ぶことができるのです

震災では、愛するペットを置いたまま、飼い主が天国に行き、

ペットたちは、未だに貰い手がいない子たちすらいます。

飼い主がいなくなり、寂しい、悲しい思いをして、

死んでいったペットもたくさんいる、ということ。





愛するペットが亡くなるのは、悲しいですが、

その現実を 日々考えてみる。そうしますと、

当たり前の日々が当たり前ではなくなり、

そして、亡くなったけど、自分が看取れてよかった・・・と

悲しみに飲み込まれなくてすむのです。





そして、そこから立ち直るには、やはりステップが必要です。

最初は、泣くだけ泣いて、思い出に浸り、悲しみを誰かと

共有して、たくさん涙を流すことです。





私の場合、死んだ直後号泣・・・しかし、そのあと

涙があまり出ませんでした。うーん・・・泣き足りない感・・・

モモの遺影の写真を探しながら、涙を流しましたが、まだ泣き足りない。

火葬の直前も号泣・・・しかし、それでも泣きたりない!

私は、まだまだ涙枯れるまで泣きますよ。





空虚な気持ちのまま、泣けない時期が長いと、

逆に立ち直るのに時間がかかることでしょう。





それで、大切なのが、儀式的なこと。

葬儀は、本当に亡くなったんだ・・・という気持ちになります。

日本では、初七日、月命日、四十九日法要・・・などなど、

儀式がたくさんあります。それには意味があります。

少しずつ、故人への気持ちをその儀式で整理していくのです。

ペットも同じです。





ですから、私はモモとのお別れの儀式は徹底的にしました。

お花も飾り、棺も買いましたし、骨壺に遺骨も納めました。

家にはこんな感じでモモのことを思いながら、

魂があちらの世界とこちらの世界を行ったり来たりすると言われている

四十九日の間はここに置いておくつもりです。





家に祭壇






そうやって、少しずつ少しずつ、

亡くなったという現実を受けれて行くのです。

そして、亡くなったペットの願いは、

飼い主がまた笑顔になること。





「もう、この子以外飼えません」と思うかもしれませんが、

一番心を癒してくれるのは、昔の思い出ではなくて、

新しいペットを飼うことなのです。

それを、先に逝ったペットは望んでいます。

次のペットのご縁を紡いでくれさえする、と私は信じています。





子犬、子猫だったら、その愛らしい姿にものすごく癒され、

そして、またその子たちの世話もするのです。

そうやって、少しずつ少しずつ悲しみから遠ざかり、

以前のペットを思い出すと、涙だったのが、いい思い出として

笑顔になっていくのです。





棺が炉の中に入れられた時、胸が痛かったですが、

泣きながら、待合室に行きました。入った途端、

そこで飼われているチワワたちの歓迎のキスを受けているうちに、

どんどん私の心は癒されていきました。





チワ歓迎①




チワ歓迎②






すごい落ち着きなかったのですが、

カメラ向けた途端、めっちゃカメラ目線(笑)

まだ9ヶ月の子。結局癒されているのです。

なんか、デカく写っていますが、本物は超小さいです。





チワ





もちろん、家に帰ってからまた泣きましたが、

ああ、こういうことなんだな、と思ったのです。

最初はペットロスにならないために、死んだらすぐに飼う!と

心に決めていたのですが、このたびは四十九日は日を開けたい、

という思いになっていたと思ったら、閃きました。





「モモがまた犬に生まれ変わって、

私の所に来ればいいんだ!」と。

そのあと、通りすがりの記事で、ある人が、

亡くなったペットの犬に、私の子供に生まれ変わって、

とお願いしたそうです。その印に、腕にアザをつけて生まれてきて、

と言ったそうで。見事、腕にアザがある子供が生まれたそうです。

ま、それは、ただの偶然で生まれ変わりじゃないかもしれませんが、

心が癒えれば真実じゃなくてもよいわけで。





何だかこれで心が軽くなった時に、

火葬場から四十九日の法要の案内書をいただきました。

そこには・・・





「仏教では一般的に、亡くなった日から四十九日の間は、

来よとあの世をさまよっている、と言われています。

この期間は、死から新しい生へと生まれ変わる準備をしているのです。

・・・七七、四十九日には、何かに生まれ変わると言われています。

四十九日の間、ご遺族の皆様の丁寧なる、ご供養のお努めのおかげで、

極楽浄土に送り届けらます」








なーんて文章を見た暁には、

「なーんだ、次来るワンコもモモかも!」とか思ったら、

気持ちが楽になったりしてね。もし、モモが来なかったしても、

モモに次の犬を導いてくれるようにお願いしたので、

そこは心配していないのです。





今頃、モモは若い身体に戻って、走り回っているだろうな、

という想像をしております。いつも楽しそうで、

いつもウザいくらい私の身体に密着していないと落ちつかなくて、

抱っこしていると、笑顔になって・・・




走る







笑顔






いつかまたモモに会えますように。

そして、見送った全ての飼い主とそのペットが

いつか必ず再会できますように・・・






そして、モモ、16年間、ありがとう。

ずっと支えてくれてありがとう。







タンポポ