ハットゥシャ(ボアズキョイ)は,小アジア(アナトリア)に存在した,ヒッタイト王国の都が置かれた都市である。
古王国時代(前1680年頃~前1450年頃)
インド・ヨーロッパ語系民族のヒッタイトは,紀元前17世紀前半に小アジアで王国を建設し,第2代国王ハットゥシリ1世の時代にハットゥシャに都を置いた。ヒッタイトは先住民ハッティ人を征服した際に継承したと言われる製鉄技術を有して独占しており,鉄製武器や戦車を使用して前二千年紀のオリエントで強勢を誇った。
ハットゥシリ1世を継いだヒッタイト王ムルシリ1世は,積極的に対外遠征を展開し,前16世紀初め頃にはバビロンを破壊してバビロン第1王朝を滅ぼした。
しかし,ムルシリ1世の死の以後は王家の内紛や辺境部での反乱が相次ぎ,さらに前15世紀には北メソポタミア方面から台頭してきたミタンニの圧迫を受けるようになり,王国は危機に陥った。
新王国時代(前1450年頃~前1200年頃)
前1450年頃,ヒッタイトでは新王朝が成立し,これにより新王国時代が始まった。新王国時代のヒッタイトは,危機を収拾した後,ミタンニ・エジプト・アッシリア・カッシートなどの強国とともにオリエントにおける国際政治を展開していく。
前14世紀のヒッタイト王シュッピルリウマ1世は,小アジアの再統一を果たすと,さらにシリア進出を進め,ミタンニを破って衰退に追い込んだ。
ミタンニの衰退によりヒッタイトはシリアをめぐって新王国時代のエジプトと直接対峙することになり,前1286年頃には,ヒッタイト王ムワタリとエジプト王ラメス2世の間でカデシュの戦いが行われたが,前1269年頃には他の勢力を警戒した両者の間で講和条約が締結されている。
前13世紀後半になると,アッシリアなどの進出を受けてヒッタイトは急速に衰えていき,そして前1200年頃,エーゲ海方面から移動してきた「海の民」によるものと思われる襲撃によって,都ハットゥシャは炎上して崩壊し,ヒッタイト王国は滅亡した。