お札から消えた聖徳太子像 | ドット模様のくつ底

ドット模様のくつ底

奈良が好きなライターの瞬間ブッダな日々の記録。
福祉的な目線から心の問題を考えています。

先日も少し取り上げましたが、


日本のお札予備知識



聖徳太子は昭和5年(1930)にはじめて百円札として

お札の顔に登場して以来、

日本史上最多の7回もお札の顔となったことがあり、


また、伝説化されたエピソードが有名だったり、


歴史上の人物として日本史でも必ず習うので

(教科書では厩戸皇子として紹介されることが多い)


だれしもが知っている超有名人と言えます。




そのイメージされる聖徳太子像は


お札の顔となった


「唐本御影」に描かれているものではないかと思われます。


唐本御影



昭和5年にお札となった聖徳太子は、


敗戦を迎え、天皇制を支えたシンボルであったことから、


GHQのパージ(追放)の対象であったそうです。


しかし、時の日銀総裁・一万田尚登氏が、


『十七条憲法』には


「和を以て貴しと為し、忤うこと無きを旨と為よ」

(わをもってたっとしとなし、さからうことなきをむねとせよ)


という言葉があり、聖徳太子は平和主義であるとGHQに説明し、


太子はお札の顔からパージされることを免れたのだという経緯がありました。



その後は、昭和59年(1984)まで

聖徳太子像はお札の顔として使用されてきました。



「お札から消えた理由とは!?」



昭和56年(1981)に

渡辺美智雄大蔵大臣が紙幣の衣替えを記者会見で発表します。


当時、千円は伊藤博文であったのを夏目漱石に、

五千円札の聖徳太子は新渡戸稲造に、

一万円札の聖徳太子は福沢諭吉に替えると発表されたのでした。


紙幣の全面刷新は、

偽札防止のために印刷する技術が難しいお札を作らなければならず、

キャッシュディスペンサー、ATMや自動販売機への対応のために

必要となった措置でありました。


それを機に肖像のお札の顔も政治家をやめ、

文化人にしてしまおうということになりました。


ところが当時、

大阪大学副学長の武田佐知子氏によると、

歴史研究者の間で話題となっていたことは、


紙幣刷新で聖徳太子が候補からはずされたのは、

この肖像が実は聖徳太子のものではなかったからではないか

いう説が浮上したことでした。


昭和57年(1982)に、東京大学史料編纂所所長の

今枝愛真先生が

「聖徳太子像は実は聖徳太子ではない」という説を

朝日新聞に掲載します。


日本歴史学会の官学アカデミズムの最高峰にいる方の説とあり

非常に注目を集めたようです。


その説とは、

「唐本御影」の掛け軸の隅に

「川原寺」と読めるような微かな墨痕(ぼっこん)があり、

しかもそれを書いたあとで

それを刷り消したような跡が見えるということで

展開していくもの。


もしも、ここに川原寺と書いてあったとすれば、

聖徳太子と関係が少ない寺院の所蔵だった可能性が高くなり、

当初から聖徳太子像として描かれた可能性が少ないというのです。


つまり、この説でいえば、

お札の顔として知られてきたあの聖徳太子像は

他の人物像だった!?

ということになるわけです。


この今枝説が出るのは昭和57年のことで、


大蔵省が紙幣刷新の会見をしたのが昭和56年とあり、

それが理由での入れ替えではないとしても、


非常にセンセーショナルな説であったことには違いありません。


その後、武田氏が調べたところ、

今枝説の矛盾点が見つかります。


掛け軸というのは巻いたり伸ばしたりするので傷みやすいものですが、


今枝説でいくと、

1200年もの間、表装替えをされていないことになります。


武田氏が掛け軸を京都の表具屋に調べてもらったところ、


掛け軸は江戸時代中葉以降の、

中国製の絹が使用されていたことがわかりました。


他にも今枝説は覆されるようなことが判明し、

この説は誤解であったようです。





それでは今日も一日頑張ります。

皆さまも良い一日をお過ごし下さい。