東大寺 大仏殿 明治期の大修理から昭和期の大修理へ | ドット模様のくつ底

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福祉的な目線から心の問題を考えています。


鉄腕DASHの
東京湾「第二海堡」潜入取材がまだ尾を引いていますが、

東大寺大仏殿の明治期の大修理について
思い出したことがありました。


東大寺HP

大仏殿は巨大な木造建築であるがゆえに、
構造上の問題で何度も崩壊や危機に立たされてきました。


江戸再建のときに
瓦が約12万枚のった大仏殿は、
瓦の重みで屋根を支える梁がしなりはじめていました。

公慶上人によって造られた
集成材方式の柱は
200年あまり支え続けてきたわけですが、
支えきれなくなってきていたわけです。

明治10年に修理計画が検討されるも、
日清・日露戦争を挟んで延期せざるを得なくなります。

その後、明治39年に本格的な修理が着工されました。

このとき、鉄鋼産業が最盛期を迎えていた
イギリスの鉄鋼技術が取り入れられ、

鉄骨の骨組みが屋根裏に組み込まれました。

これは「トラス構造」と呼ばれ、
鉄骨の橋などに用いられる技法です。


その後「大仏殿落慶供養」が
営まれたのは大正四年になります。


つまり、このような日本の歴史的建造物であっても、
当時は西洋化を余儀なくされたということなのかと
私は思ったわけです。


大屋根を支える虹梁に
「鉄骨トラス」が組み込まれたことで、
大屋根は支えられることになりました。


ところがこのときにですね、

瓦の枚数を約10万枚に減らしたことで、

隙間ができてしまい
雨漏りをするようになりました。


その後、昭和の大修理が行われ、
昭和55年落慶法要。

昭和期では軽量化された瓦を用いて
約12万枚に
戻すことで
全体の重さの負担を減らすことができ、


かつ雨漏りの原因となった
隙間もなくせたそうです。


大仏殿は時代ごとに困難が生じても
叡智を結集させ補修を繰り返しながら、

20世紀以前の木造軸組建築として
世界最大を誇り、美しい姿を今に残しています。


それでは、
今日も皆様が健康で幸せに過ごせますように。