誰もいないどこかへ
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20150807 

 人間って、多くの属性がありながら、大別すると「力に恵まれた人」と「力に恵まれなかった人」に分けられると思うんですよ。“力”というのは経済力とかご縁とか環境とか、様々なものを含むけど。

 自分のような力に恵まれなかった人間は、何が起きようと逃げたり隠れたりしながら生きるしかない。
 きっと戦争が起きて爆弾が飛んでこようと、爆弾が落ちた翌日には会社に出勤しないといけないだろうし、家が焼かれたら公民館とかに逃げないと行けない。たぶん誰かを助ける気力なんて湧かないだろうし、疎開先でみんなを勇気付けられるような気の利いた話もできない。
 べつに戦争に限った話ではないけど、現実に対して「何かができる」と信じている人の大半は、実際に「何かができる力を持っている」人だったりするんだよね。そういう意味では、あらゆる局面で「何もできない人」の存在は封殺されている、とも言えるのかもしれない。

 現実に対して何かができるできないではなくて、何もできない“としても”人は生きていかなくてはいけないし、何もできない人に、それでも生きていかないといけないと思わせるだけの“根拠”や“要素”が、今一番足りていないもののような気がする。

 それにしても「何かができる」って何なんだろう。
 こんな自分でも先日国会議事堂前の抗議行動に参加してみたし、他にも何か社会的な問題などがあれば学んでみたりイベントがあれば参加してもみたけど、それで社会の何かが変わったわけではないし、自分も何かができた実感がない。

 基本的には、結果が伴って初めて「何かができた」ということになるんだろうけど、そういう意味では、結果が伴っていないので、自分は「何かは“した”けど、何も“できていなかった”」ということになる。行動はしたが、結果が伴っていない。それは無駄な努力、と言うのかもしれない。
 生きていて、何も行動していない人間なんていないし、努力をしていない人間だっていない。ただ、結果が伴わなかったので、内外と共に何も“できていない”という評価に終わっただけだ。それが「何もできない人間」の正体、というところなんだろうと思う。

 たぶん、何かが変わったとしても、それは自分以外の強大な影響力を持った他の誰かのおかげであって、自分の影響力なんてゼロに等しい。社会や他人に何かに関与できたり影響を与えたりできる、と頑なに信じ続けた先に待つのは、きっと「身の破滅」だ。
 関与力、影響力ゼロでも、生きられるようになりたい、と切に願う。

20150806 
 理想論、と言われればそれまでなんだけど、人生は「寂寥感を伴う孤独な旅」のようなものであればいい、と思う。
 「ある目的を果たすために、どこかへ行かなければならない」という状況に、とても憧れる。約束の地を求めて世界中を旅して回るとか、最高な生き方だな、と思うんだよね。
 槇原敬之さんの『僕が一番欲しかったもの』も一人旅の歌なんだけど、一人旅でもいろいろな人に出会うでしょう。1人で生きていきながらも出会う人がいて、そういう人との接点だけで、人生は手一杯だ、という気もする。そんな無理くりに人脈や友人を増やそうとしなくても。

 “近代化を終えた現代の日本を被う寂しさは有史以来初めてのもので、今までの言葉と文脈では表現できないのだ。どこかに閉じ込められているような閉塞感と、社会と自分自身を切り裂きたいという切実な思いが交錯して空回りしている。”(小説『ライン』あとがきより)
 ・・・というようなことを村上龍さんは言うんだけど、寂しい事こそ、人としての正しい姿なのではないかと思う。
20150804 

 「嫌われても気にするな」みたいなことは、ライフハックとしてネットでも頻繁に拡散されるけど、正確に言えば、どんなに嫌われようがなんだろうが、生きていかなくちゃいけないんだよね。
 どんなに嫌われようがなんだろうが生きていかなくてはいけないのだから、ただ孤独に、心静かに生きられるようになることが大切なんだと最近は分かってきた。じつは先月あたりは、写真仲間が欲しいなと、いろいろ奔走してたんだけど、仲間を募るの面倒くさくなって、諦めた“後”のほうが、よほど気持ちが楽だ。

 今になって思うと、人間ってどんなに閉じこもっていようと、社会や人々との接点がなかなか途切れないもので、例えばネット上で様々な情報に触れられたり、逆に発信できたりする。劣等感を抱えながら中途半端に誰かとの接点があったり、いろいろなものに心を動かされたりするのが、とてもつらかった。
 もちろん切実に助けを求める時には人とのつながりはあったほうがいいんだけど、“理想”ということで考えると、真の孤独を目指して、何事も心動かされずに生きていける、という状態が、一番いいんだろうな、という気が今はする。
20150731 

 よく「他人の目なんて気にするな」ということが言われるでしょう。そういう指摘を受けるまでもなく、心を閉ざしていたほうがうまくいくんじゃないだろうか、と思う局面が、人生では頻繁に訪れる。

 たぶん気のせいなんかじゃなくて、楽しんだり喜んだりしていると「逃げていってしまうもの」が、何かある。人によってはそういうものを“運勢”とか“運気”とか呼んだりしている場合もあるようだけど、感情を露出すればするほど、壁や障害も大きくなるような、そんな“法則”が、宇宙にはある気がする。
 何事も心動かされず、目をつぶり、耳を塞いでいたほうが毎日がうまく流れていくような気がする。そんな人生は面白みがない、という人もあるだろうけど、面白みがあるないではなく、運勢とか運気とか、そういう訳の分からないものにこれ以上振り回されながら生きたくない、という思いのほうが、今は強い。
 


 ネットで指摘されるまでもなく、この社会の大半の人は希望を必要とはしていないし、救いだって求めていない。言い方を変えれば、深刻に明日が来ることへの不安を抱えている人は少ないし、明日が今日よりも良い1日であるようにと、祈りながら生きている人も少ない。
 必要としていない、というか、不安がある分だけ、それを帳消しにできるほどの楽しいことがあるのだろうし、友人や仲間が恋人がいて、日頃不安を感じずに生きることができているのだろうと思う。

 生きているとつらくて悲しいことばかりだけど、毎日に不安を抱えて、救われたいと願いながら生きている人は現実にはそう多くはないし、不安を消して救われるための方法は、自分一人で求めていかないといけないんだな、と思う。決して思考法を変える、ということではなくて。