人間って、多くの属性がありながら、大別すると「力に恵まれた人」と「力に恵まれなかった人」に分けられると思うんですよ。“力”というのは経済力とかご縁とか環境とか、様々なものを含むけど。
自分のような力に恵まれなかった人間は、何が起きようと逃げたり隠れたりしながら生きるしかない。
きっと戦争が起きて爆弾が飛んでこようと、爆弾が落ちた翌日には会社に出勤しないといけないだろうし、家が焼かれたら公民館とかに逃げないと行けない。たぶん誰かを助ける気力なんて湧かないだろうし、疎開先でみんなを勇気付けられるような気の利いた話もできない。
べつに戦争に限った話ではないけど、現実に対して「何かができる」と信じている人の大半は、実際に「何かができる力を持っている」人だったりするんだよね。そういう意味では、あらゆる局面で「何もできない人」の存在は封殺されている、とも言えるのかもしれない。
現実に対して何かができるできないではなくて、何もできない“としても”人は生きていかなくてはいけないし、何もできない人に、それでも生きていかないといけないと思わせるだけの“根拠”や“要素”が、今一番足りていないもののような気がする。
それにしても「何かができる」って何なんだろう。
こんな自分でも先日国会議事堂前の抗議行動に参加してみたし、他にも何か社会的な問題などがあれば学んでみたりイベントがあれば参加してもみたけど、それで社会の何かが変わったわけではないし、自分も何かができた実感がない。
基本的には、結果が伴って初めて「何かができた」ということになるんだろうけど、そういう意味では、結果が伴っていないので、自分は「何かは“した”けど、何も“できていなかった”」ということになる。行動はしたが、結果が伴っていない。それは無駄な努力、と言うのかもしれない。
生きていて、何も行動していない人間なんていないし、努力をしていない人間だっていない。ただ、結果が伴わなかったので、内外と共に何も“できていない”という評価に終わっただけだ。それが「何もできない人間」の正体、というところなんだろうと思う。
たぶん、何かが変わったとしても、それは自分以外の強大な影響力を持った他の誰かのおかげであって、自分の影響力なんてゼロに等しい。社会や他人に何かに関与できたり影響を与えたりできる、と頑なに信じ続けた先に待つのは、きっと「身の破滅」だ。
関与力、影響力ゼロでも、生きられるようになりたい、と切に願う。