空と海・・・ときどき山のブログ

 

『新宮の人は冷たいですね』

と他所から来た人は言う。

『何というか、よそよそしい

というか、冷遇するというか・・・

自分の仲間には親切だけど

それ以外の人間には冷たい』

・・・ ・・・

こういう会話は返事に困る。

 

『あと、土地柄で言えば

勝浦は大阪っぽいけど

新宮は名古屋っぽい』と。

 

都市部に多いかも知れないけれど

繁忙期と閑散期があって

平日の閑散期に身体が慣れてしまうと

週末の繁忙期にサービスの質が一時的に

低下するといいますか、

接客業に於いても普段通りの回転率を

維持する為に、接客の処理速度を

気にかけて中身が希薄になりがちで

それが他所からの来客者には

冷たく感じるのではないかと思う。

何かしらの疎外感を他所から来ると

少なからず感じるのではないかと思う。

 

観光案内所で5分ぐらいパンフレットを

選んでいた私に吠えるように怒号を

上げていたスタッフがいたが、そんな人は

論外である。

 

 

 

和歌山県周参見町と白浜町の間を通る熊野古道 大辺路 富田坂。

前回、歩いたのが2013年10月14日ですから、

ほぼ10年ぶりの再会みたいな感じかな。

前回は、安居の渡し方面に歩いたのでしたが、

今回は白浜町、草堂寺方面に歩く。

 

 

車両進入禁止のゲートの先です。

 

 

日置川があって、祝(しゅく)の滝との分岐点です。

祝の滝も再度、見に行ったが相変わらずどこにあるのかよく分からず。

旧日置川町の日置川と白浜町の富田川の間にある熊野古道です。

 

 

 

『安居辻松峠(あごつじまつとうげ)』

 

 この地は旧白浜町と旧日置川町との境にあたり、その名の通り

道の両側に塚が築かれ、そこに松が植えられていたらしい。

 ここにあった松の木は昭和18年の山火事で焼けてしまい

現在では道の端に横たわっている。

 また山裾には舟形光背の地蔵立像が祀られていて

その台石部には『安居村』と彫られている。

 ここは和歌山市より23里(約92km)の地点となっている。

                       和歌山県

 

 

 『富田坂 茶屋跡』

 この茶屋については大辺路を歩いた文人墨客が残した紀行文

などにその存在を確認することができる。

 代表的なものとしては文化元年(1804年)に三宝院門跡に

随行した横井金谷が『金谷上人御一代記』に茶屋の壇というところに

休憩所を設けていることを記している。

 常設の茶屋としては幕末頃から大正8年頃まで営業していた

ようで明治25年には陸奥宗光が猪狩りをした際に休憩

したらしい。

 大辺路屈指の難路である七曲がりを越えた旅人にとって

この茶屋が何よりの癒しの場となったであろう。

 また当時、茶屋で使われていたであろう石臼が遺され

往時を偲ぶよすがとなっている。

                  和歌山県

 

 

 大辺路の爽やかさに感嘆すると思う。

 

 

 南紀白浜空港が近いのだろうか。

 お昼の1時過ぎに飛行機の爆音が聞こえたような気がする。

 

 

 

 『一里松跡』

 

 一里(約4km)を示す松があったといわれる場所であるが

往時を偲ぶものは残されていない。

 ただ土地の人々はいまだにこの峠を一里松と呼び親しんでいる。

 この近辺には四基の石碑が建立されており

一基は正保四年(1647年)銘の板碑で頂部にキリークとともに

南無阿弥陀仏と彫られている。

 また常州行方郡玉造村の行者、茂左衛門が文政六年(1823年)

3月吉日に建立した「奉納大乗妙典日本廻(国塔)」と

比較的、新しいものであるが「従是奥 高瀬組所有山」

と記した石碑がある。

 最後の一つは「当村銀吉」が文政11年(1828年)

に建立した「日本廻国千人供養塔」である。

 これは近世の大辺路において在地の人々が旅人の供養などを

行っていた証拠となり、貴重な資料である。

                     和歌山県

 

 

 今回、折り返し地点にした草堂寺は立派なお寺でした。

 草堂寺からUターンして、来た道を戻りました。

 

 

 

 

 

 

 2022年6月4日(土)

到着時の気温    19℃

歩数      15,252歩

往復      9,17km

消費カロリー  394kcal

脂肪燃焼量      25,4g