あの日、内見がキャンセルになったから、ニノの部屋探しはまだ続いているようだった。
「ようだった」というのは、俺が塾講師のバイトを始めたせいで、ニノの部屋探しに全くつき合えていなくて、状況がよくわからないからだ。
『母親と回ってるから大丈夫』とメッセージが来る。
でも、このあたりの、夜道が暗くて良からぬ輩がたくさんたむろしてるところとか、美味い店があるところとか、俺が教えながら部屋探し付き合いたかったなあ、と思いながら、塾講師のバイト先から自転車を走らせる。
マンションに着くと、エレベーターにブルーシートが引いてあった。
引越しか…
シーズンだもんな…
あと2週間ほどで、うちの大学も入学式だ。
ニノも、早く部屋決めないといい部屋なくなっちゃうぞ…
エレベーターで自分の部屋のある3階で降りると、ブルーシートが俺の部屋の方へ続いていた。
引越しは隣の部屋のようだった。
廊下で、引越し業者が会釈しながら脇を通り過ぎる。
自分の部屋に着いたとき、隣の部屋のドアが開いて、出てきた姿を見て俺は「わっ」と声をあげた。
「翔ちゃん!」
「あら~翔先生」
薄いロンTを着て、腕まくりをしたニノと、ニノの母さんが部屋から出てきて、俺はあんぐりと口を開けてニノを見た。
「な、なんで…」
やっとのことで声を出すと、ニノはいたずらっぽく笑った。
「ふふ…いい部屋があったから、即決しちゃった。翔ちゃんの隣の部屋だったんだね~」
「おまっ…」
わざとだろ?と言いかけたけれど、にこやかに微笑むニノの母さんの視線を感じて言葉を飲み込む。
「翔先生、この度はありがとうございました。おかげで和也も大学生になれました」
ニノの母さんが深々とお辞儀をするから、俺は焦った。
「いや、あの…合格したのは、和也くんの力なんで…その、『先生』なんて呼ばないでください」
にこにこするニノの母さんは焦る俺を気にせず、ニノに「あなたもちゃんとお礼言いなさい」と声をかけた。
ちょうどそのとき、引越し業者が冷蔵庫を運んできた。
ニノはにこっと笑って、「後で、ちゃんと言うよ」と母親に呟くと、業者を誘導するため、母親と部屋へ入って行った。
荷物の搬入は夕方終わり、母さんは「翔先生と食べなさい」と夕飯を2人分作ってくれて、帰って行った。
作ってくれたオムライスの皿を持って部屋を出ると、隣の部屋のベルを鳴らす。
「ニノ…」
出てきた翔ちゃんは驚いた顔で、俺を見た。
「引越しのご挨拶」
にこっと笑って見上げると、翔ちゃんは、ふっと笑った。
「入る?ニノ」
「うん」
ドアを閉めると、俺はオムライスの乗った皿を顔の高さまであげた。
「引越しの挨拶ね、2種類あるけど、どっちがいい?」
「2種類って?」
小さな玄関で靴を脱いで部屋に上がった翔ちゃんが振り返った。
「母さんが作ってくれた、翔ちゃんの大好きなオムライスか…俺の、キス」
「…そりゃ、難しい問題だな」
翔ちゃんは眉をひそめて、俺の手からそうっとオムライスを取りあげて、小さなシンクの台においた。
「先生でも…難しい問題あるんだ」
「…ニノ」
俺が靴を脱いで部屋に上がると、翔ちゃんは待ちかねたように俺の腰を抱き寄せた。
見上げると、俺の大好きな綺麗な二重まぶたの大きな瞳がこっちをのぞき込んでいる。
「…もう、先生なんて呼ばないで…」
「なんで…」
翔ちゃんの手がゆっくりと俺の顎にかかって、親指が下唇をなぞった。
と思うと、翔ちゃんの顔が近づいてきて、唇が触れる直前、
「こういうの、しづらくなるでしょ?」
と、翔ちゃんが低くかすれるように呟く声が聞こえて、俺は目を閉じた。
-終-