2022年3月8日。
今年もあっという間にこの日を迎えました。
大好きなお母さんとお別れした日。
Twitterで新しくフォローしてくださった皆様は知らない方もきっと多く、この日にお伝えできれば…と思い、久しぶりにアメブロを更新することにしました!
私のお母さんは、7年前の今日旅立ちました。
『末期の胃がんステージ4』と診断され、余命3ヶ月を告げられていたにも関わらず、約半年間がんばってくれました。
もっと早くに病院へ連れて行って検査を受けてもらえば良かった。
病名が発覚してからも、可能性を求めて病院を何ヶ所も探すべきだった。
お兄ちゃんも私も、たくさんの後悔が今でも残っています。
『絶対こうじゃなきゃいけない!』なんて決まりはないので、あくまで私個人の考えですが…。セカンドオピニオンは受けた方が良いと思っています。
そして、緩和ケア病棟への入院が決定するのであれば、沢山病院をまわって雰囲気や他の患者さん・患者さんご家族の表情を見てほしい。
病院に関しては、昔私が3/8に更新したブログを参考にしていただければと思います。
巡り合わせもありましたが、私たち家族にとってはとても良い環境で、お母さんとさいごまでゆっくりと過ごすことができました。
とは言っても、いまはコロナ禍。
現状どのようになっているのかはわからないです…ごめんなさい。
もしこれが7年前も同じだったら私はどうなっていたんだろうか。
母が最初大学病院へ入院した翌日に、父が心筋梗塞で別病院へ緊急入院→体力の回復を待つ時間もなく予定を早めて緊急手術。
私たち兄妹はお見舞いのハシゴをしていました。正直、両親と間髪入れずにお別れをする日がくるのかもしれない………という不安が常にありました。
今この時代だと、きっとお見舞い…できないですよね。想像するだけで怖いです。
私のひとつの目標として、私たち家族がお世話になった緩和ケア病棟へいつかボランティアに行って、少しでも何かのお手伝いをしたいと考えています。…が、こちらもきっと今の状況が落ち着いてからじゃないと厳しいんだろうな。
今すぐは無理だとしても、私がもっとばっちゃんになってからでもできるといいな!
お母さんは、2人部屋から個室に移ってからも「1人でも歩けるように!」と、リハビリの予定を組み込もうとしていました。先生が止めるくらいにギッチギチに予定入れようとして、減らす説得をしたほどに。
身体の自由がどんどん奪われていることに不安や焦りがあったのかもしれないな…。
当時の私では、精神的に子どもだった部分が大きく、お母さんの支えになれていなかったと思います。いろいろ迷惑かけまくっていたのでね…。
ある日、深く眠りについてしまい、先生が何度頬を叩いても目を覚まさなくなったことがありました。
その日は、私たち家族全員が病室に揃っていた。
前日私がお見舞いから帰る時に書いた置き手紙を読んだ形跡もなく、食事も全く手を付けず…1度も起きていなかった。「もしかしたら、このまま…」と担当の先生に言われてしまったんです。
全く起きる気配がなく、父も心筋梗塞からやっと回復した頃だったので長居もできず、兄がみんなを車で送るために、病室で私は母と2人きりで兄の戻りを待つことになりました。
『あーん!もー!!みんな帰っちゃったよー!つまーーーーんなーーーーい!!』
(ほんと子どもだよw)
病室でお母さんに喋りかけたら、ガバッと自力で起き上がった瞬間が今でも忘れられません。
あれだけ先生が強く頬を叩いたり、みんなが耳元で何度も呼びかけていたのに?
実家にいたとき、お休みの日に家族みんながダラ〜っとテレビを観ている状況に耐えきれず「つまーんなーいー!!!パチンコいこ〜よ〜!!!!」と、母にくっついたりくすぐったりして誘っていた頃みたいな声で喋りかけた途端に……?
起き上がった母に対して「そのままキープして!!!!起きてて!!!お願い!!!」と強く伝え、慌てて家族みんなを呼び戻した。
先生たちもすぐに駆けつけてビックリしていました。
でもその日がキッカケで、お母さんはその後身体の痛みや苦しみを意識のある状態で闘わなくてはいけなくなった…。
夜中に何度も起きて私の名前を呼び「起こして…」と、泣きそうな顔で訴えてきた姿は今でも頭から離れません。
お母さんとは2月に入ってから会話もできなくなって、毎日のようにお見舞いに行っていたけど、いつもボーッと母のそばで一緒の時間を過ごしていました。
余命3ヶ月を宣告され、年を越すことは難しいと言われた母。
クリスマスに私はサンタのコスプレでサプライズお見舞いをし、大晦日には泊まりの申請をして2人で一緒に寝てお正月を迎えた。
1月12日の私の誕生日。
1月21日のお母さんの誕生日。
そして、会話はできませんでしたが2月19日の父の誕生日。
家族みんなで、一緒に過ごしました。
3月8日の早朝、兄から連絡があり急いで病院へ。病室に入ると、もうその時が訪れますよ…という空気が流れていた。
「なになにー!だーめだよ??」と、お母さんにいつも通り明るく…元気にね、声かけたんだ。
その後すぐにお母さんは旅立ちました。
私の声で飛び起きてくれた日があった。
きっとこの日も私の声を聞いて、娘が間に合った…と、わかってくれたんだね。
あのとき、すぐに『ありがとう』と言えなくてごめんね。ずっとずっと頑張ってくれてありがとう。
私を産んでくれてありがとう。
パチンコを教えてくれてありがとう(笑)
お別れした直後は、家族や緩和ケアの先生方、お母さんのことを知っている人たちからのたくさんの優しさを受け入れられないほどに、精神が耐えきれませんでした。
だけど、母がさいごまで生き抜いたその姿を見て、その強さは私が引き継いでいかなきゃいけない!と…ゆっくり時間をかけて、立ち上がり前へ進み始めることができました。
私は小さい頃から父と母に連れられてパチンコ屋さんに居ました。
することがないので、父の膝の上でお母さんがまとめてくれたチラシの裏に、盤面のキャラクターを描いて時間を潰していた。
お父さんが私に打たせたら当たってしまい、店員さんに怒られたこともあったらしい(笑)
18歳になって初めてお母さんとパチンコの並び打ちをしたのは『CR新世紀エヴァンゲリオンZF』だった。今思うと、初打ちでとんでもないスペックを打たされたもんだ(笑)
初めて父と母に挟まれて打ったのは『あずみ』だった。
ずっとずーっと、我が家はパチンコばかり。
些細なことから大きなことまでたくさんケンカもしたけど、仲直りするためのお誘いもパチンコだった。
お母さんの生きぬいた強さ。
なんだそれ?ってくらい爆連するヒキの強さ。
そんなお母さんの姿は私の心の中でずっと生き続けています。
憧れのパチンコライターになった姿を直接見てもらうことはできなかったけど、きっとそばで見守ってくれていると信じています。
これからも自分らしく頑張るよ!🌻
おかあさん、大好き💛💛💛💛💛💛
🌻遊喜🌻