「お母さんが倒れて…今病院なの。」


朝、いつもより少し遅めの時間に目覚めた娘と寝室から出ようとした矢先の電話。

実家で両親と同居する妹からの連絡でした。


「心臓が止まってるんだよね…」


聞けば、妹が目覚めたときにはもう倒れていて呼吸が確認出来ず。父は朝早くに出かけていたため、妹一人で救急車で隊員にバトンタッチするまで、懸命に心肺蘇生を試みてくれたとのこと。駆けつけた救急隊員からは「まだ暖かく、硬直もない。倒れたばかりのようだ」と説明されたそう。しかし病院に着いた今も、さまざまな救命措置も虚しく心臓が動かない、とのこと。


母の心臓が止まってると聞いても信じられず。

妹からの続報を待ち、胸をざわつかせながら娘の朝の支度を進めていたら…

10月27日金曜日 9時55分
母は帰ることなく、そのまま旅立ちました。
突発性のくも膜下出血でした。


66歳。持病なし。健康には特に気を遣っていました。

少なくともまだあと20年は一緒にいられる。

私たち姉妹は…いや、絶対母も、そう思っていました。


突然すぎる別れに実感が湧かないまま、とにかく妹のもとへ急がなければ、と荷物をまとめて飛び出しました。


夫も愛知の実家まで、もうすぐ生後5か月になる娘の分も用意した大荷物を運び届ける役割を担ってくれました。夫の仕事時間を調整してくれたマネージャーと了承してくれた現場のおかげです。臨機応変、迅速なご対応に、本当に、感謝しかないです。


そのおかげで早めに実家に戻れた私は、用事を切り上げて急いで帰宅した父と共に、穏やかで安らかな表情の母と対面しました。


いざその姿を目の当たりにしても、本当にただ眠っているようで。もう目を覚さないなんて信じられなくて。「あれ?今何時?もう夕飯の時間じゃない!お母さん寝過ぎちゃったよー」なんて笑って起きてきそうで。何度もそんな展開になればと淡い期待を抱いていたのですが…あっという間に葬儀の朝。


いつもの柏田家の挨拶、ハグで母を斎場へ送りました。


披露宴にて。ありがとうのハグ


生前の母の願いで家族葬でこじんまりと送ることを決めたのですが、母の友人たちに訃報を伝えると「少しでも会いたい」と駆けつけてくださる方ばかりで。納棺のためだけに借りた部屋がいっぱいになるほど遠方からも大勢集まり、短い時間でしたが母の心豊かな人生が伺える温かな時間を過ごすことが出来ました。



母が好きだった花・秋明菊が実家の庭で光っています


母は我が家の太陽でした。


アメリカや中南米への転勤が多い父に連れ添い、住む土地によって変わる言語を生活のために学び、父を支え、二人の子どもを育てました。

慣れない場所に戸惑い、家に閉じこもる…なんてことは無縁で。異文化を丸ごと楽しんで、趣味のスポーツにも全力で取り組み、行く先々で友達の輪をどんどん広げていく。

柏田家は海外でも日本でも、家庭内でも外でも、笑顔が絶えず。パナマの内戦から産まれたばかりの妹と3歳になったばかりの私を連れて亡命したり、ブラジルでは強盗にピストルを突きつけられたり(文字にするとインパクトすごいなぁ笑)辛く怖く大変なことだってもちろんありましたが「そんなことあったねー」なんて笑いのエピソードになってしまうほど、楽しい思い出ばかりの幸せな一家。それもこれも我が家の太陽、母のおかげで。私の表現に繋がる感性は、楽しむ天才だった母に育ててもらいました。


実家の愛知から離れ、東京で暮らす私が出産すると聞けば駆けつけ、里帰り出産とはまた勝手の違う東京での娘のケアも笑顔で楽しんでこなし、亡くなる6日前にはお友達と夫婦同士でゴルフ旅行をするなど、柏田家の誰よりもパワフルで元気そのものだった母。自分のことよりも人のことを大切にする性格が長所である反面、ときに自分のことを後回しにしてしまってつらくなることもあったようですが、ここ数年は自分の心の赴くままに伸びやかに穏やかに、より一層楽しく過ごしていたように感じています。


66歳。

楽しいこと、やりたいことはまだまだあったとは思いますが、人を愛し、人に愛され、行きたいところへ行き、会いたい人に会い、本当に充実した濃密な人生でした。半ば諦めていた孫娘にも会うことが出来、これからの楽しみはあったろうけど、未練はないんじゃないかな?そう思えるのが遺された私たちにとっての救いです。




母という太陽を失った柏田家は、その後…


実は、意外と前向きに明るく過ごせています。母がいなくなった実感が未だに湧かないからなのですが、普段から感謝や尊敬など、想っていることは素直に伝えてコミュニケーションはとってきた家族なので「言えばよかった」類の後悔はそれほどなく。母は生前、友達と旅行に出かけて父と姉妹で留守番することがよくあったので、今も「スマホを忘れて旅行にいっちゃって連絡のつかない母の留守をみんなで守ろう」という感覚で。でも今はそれでもいいのかなぁと。ゆっくりと、母を失い、心にぽっかり空いた穴を自覚しながら、楽しい旅行に出かけている母に負けないくらい楽しく過ごし「やっぱり柏田家は最高ね!」と旅行から帰ってきた母に喜んでもらえるような私たちでいたいな、と思っています。


母も、母の友人たちも、一番心配だったのは父。惚れ込んだ母と結婚できたことが人生の大正解だったと娘に話すほど、母が全てだった父がどうなるか気掛かりでしたが「料理上手だったお母さんの味を再現できるようになりたい」と、母のエプロンをかけて私たち娘と一緒に台所に立って料理に挑戦し始めています。もともと器用なので、もしかしたらものすごい料理人に育っちゃうかも?母との思い出も今まで以上によく語るようになり、これからも母との日々を忘れずに大切にしながら娘たちと楽しく生きていきたい、という意志が感じられ、その姿に「私も頑張ろう!」と励まされています。


妹も笑えてはいますが、家族の誰よりもショッキングな場面に居合わせたので傷は深く。それでも「あのドタバタを、お父さんが味わうことがなくてよかった。きっとお母さんもそう思ってる。」とほんとに心優しくて。母が育んできたものは確実に私たちの中にあるんだと実感しています。悲しみを綺麗に片付ける必要なんてないので、妹が涙するときは出来るだけそばで寄り添ってあげたいと思っています。


母にはまだまだ及ばないものの、うちの娘も小さな太陽として柏田家を優しく照らしてくれています。娘の無垢な笑顔には何度も心が救われました。


一番下に敷いているクロスは

私が生まれるときに母が作ったもの。


生前、母が楽しみにしていた娘の寝返り。身体も平均より大きく育った力強い娘を見て「4か月じゃまだ早いけど、そろそろ寝返りそうだね!寝返った時にどんな反応を見せてくれるのか楽しみ!」と話していました。

葬儀の前日、母に関連する諸々の手続きのため出かける父と妹を玄関で見送り、母が眠る和室に戻ったら…なんと!娘が寝返ってる!楽しみにしていたばぁばにだけ初めての寝返りを披露してくれたようで。なんだか泣けてしまいました。あ、ちなみに初めての寝返りをした娘の反応は、泣きながらパニック、でした。笑



これからは父と妹が二人で生活することになる愛知の実家。二人にとって無理のない生活リズムに整えるお手伝いをするため、夫の了承を得て、年内は愛知の実家に娘と滞在することにしました。お仕事も続けられるよう、レギュラーでナレーションを担当している番組と相談して、東京ではなく名古屋で収録できるよう、調整していただきました。私がナレーションを務める番組は必ず録画し、友達にお知らせするなど、放送を楽しみにしてくれていた母。そんな母のためにも、お仕事は休まず勤めたくて…こちらの無理なお願いに快く応じてくださった番組スタッフの皆様、スタジオの皆様、マネージャーに感謝です。


また、年始の挨拶などもいつも通りに行うつもりです。人との繋がりや関わりを大切にしていた母は、生前から「喪中だからと挨拶を控えなくていい。自分が理由であけましておめでとうが言えなくなるなんて寂しい」と話していたので、家庭内以外は通常通りに過ごし、母のいない日常にこれから少しずつ慣れていけたらと思っています。




大好きな母へ。


これからも変わらず大好きだよ。


あなたから受けた愛情は次の世代に繋ぎながらいつまでも私の中で生き続けます。重い身体を脱いだあなたは益々フットワークが軽くなって、いろんなところへ遊びに行ったり、会いたい人に会いに行ったり忙しいだろうけど、ときどきは遊びに帰ってきて私たち家族を応援してね。


毎年、誕生日の度に伝えてきたことだけど、改めて。


あなたの娘に生まれて、幸せです。

あなたが母親で本当によかった。

産んで育ててくれてありがとう。

たくさんの愛をありがとう。