歴史なお話(幕末)・赤松小三郎暗殺事件 | よしのおもちゃ箱

歴史なお話(幕末)・赤松小三郎暗殺事件

慶応3年(1867)9月3日、上田藩士赤松小三郎が、中村半次郎らに暗殺されました。


赤松小三郎って何者?

という方が多いと思いますが、簡単に言えば、坂本龍馬の政治的な活動を龍馬の前に行っていた人物です。


坂本龍馬より先に勝海舟の門人となり。佐久間象山と手紙での交流を行い、内田弥太郎(明治になって太陽暦導入を指揮した高野長英の弟子)にも学んだ人物でした。


そして英語の能力を生かして『英国歩兵練法』の翻訳を行います。この中で記された、軍隊を鼓舞するための軍楽隊の記述に登場する楽譜が、日本最初の五線譜印刷と言われています。


これらの実績から京都で宇宙塾という私塾を開くと、会津・鳥取・新撰組隊士や薩摩・越前・大垣藩士などが学びにやってくる塾となったのです。


そして薩摩藩が、兵学教師として薩摩藩邸に招いて藩士を教えました。この中に東郷平八郎や野津道貫・樺山資紀らの日清日露戦争で活躍する軍人や、村田新八・篠原国幹そして中村半次郎といった西南戦争で西郷隆盛と共に戦う人物が育ったのです。


それと同時に、議会制政治の実現を主張して、慶応3年5月17日、越前藩前藩主松平春嶽の質問に応じる形で『庶政一新に関する意見書』を提出しました。これが6月9日に坂本龍馬が書いた『船中八策』とほぼ同じ内容だったのです。

龍馬の『船中八策』は松平春嶽から『庶政一新に関する意見書』を見せられた龍馬が、写し変えた物だと説がここから登場します。



薩摩藩で教えていた赤松小三郎でしたが、春嶽との関わりなど目立つようになってきたので、故郷の上田藩では急にその才能を藩内に取り入れようとして、上田への帰還命令を発します。

薩摩藩では、藩の軍制を佐幕派の上田藩に知られる恐怖や、小三郎の才能、そして小三郎が幕臣の勝海舟と親しかったことなどを考慮して、小三郎が他に行く事をよしとしませんでした。


西郷隆盛は、中村半次郎と田代五郎左衛門に小三郎暗殺を命じます。



慶応3年9月2日、薩摩藩邸を訪れた小三郎は小松帯刀や西郷に別れの挨拶をして、半次郎や田代ら門人にも顔を出してここでも別れを惜しみます。

翌日、あいさつ回りの為に京の中をウロウロしていた小三郎は東洞院通五条下ルまで来た時に、半次郎と田代が立っていた。

前日はなごり惜しい別れをしただけに、親しげに小三郎が声をかけようとすると半次郎が刀を抜き、田代が小三郎の背後に回る。小三郎は懐に右手を入れ拳銃を抜こうとした瞬間、半次郎は刀を下ろし左肩から斬り下げ、背後から田代が背を斬ったのです。


赤松小三郎の傷は

首2か所(致命傷)・右肩・左肩・右腕・背1か所だったそうです。
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当初、赤松小三郎暗殺の犯人は不明とされ、中村半次郎は京の小三郎の墓前に哀悼の言葉を書いた碑を建立し、上田には東郷平八郎の建立した碑があります。


後に中村半次郎の日記から真相が明らかになります。

そして人斬り半次郎と称されている中村半次郎(桐野利秋)が、人を斬った事が解っている唯一の人物が赤松小三郎なのです。


ちなみに、この1ヶ月半後に大政奉還が起こった時に半次郎は「こんなことになるなら赤松先生を斬るのではなかった」といい、この後の人生で寝ている時に何度も「赤松が来る」と寝言でうなされたと伝わっています。



赤松小三郎の死から2ヵ月半後に坂本龍馬が近江屋で暗殺されるのです。