”金春流79世宗家金春信高先生が77歳の時に、「関寺小町」を舞われました。これが、私の一番心に残る演目です。人間が人間を具現化するという芸術の中で、能楽以上のものはない、と確信しました。”

 

能楽という芸術は、奥深さという点では世界屈指です。決して他がダメだという意味ではありませんが、わたしは、能楽は世界最高の芸術だと、よく言っています。森羅万象、閻魔大王から草木の精霊や蝶々まで、老若男女あらゆる役が出てきます。人間の喜怒哀楽も表現しつくしていると言われています。

 

その能の最終境地が老女を演じること、だと言われています。金春流では、「関寺小町」という演目があり、一子相伝で家元しかできません。ちょうど20年前、わたしの能楽の父であり恩師である、金春流79世宗家金春信高先生が77歳の時に、その関寺小町を舞われました。これが、私の一番心に残る演目でした。

 

先生は、当初は、関寺小町を舞わないと仰っていましたが、先生のお父様78世金春八条先生が舞われてから、すでに30年以上も経っており、他に誰もできないため、周りから懇願されたそうです。

 

その時に、信高先生が個人的にわたしに、「自分は関寺小町を舞う決意をした。一年間全ての弟子の稽古、全ての舞台を休んで、関寺小町だけに集中したい。だから君の稽古も休ませて欲しい。」 そういう風におっしゃいました。わたしも、「ぜひ、集中なさってください」と申し上げました。そして当日は観客席の一番前で見よう、などと思っていたのですが、本当に驚いたのは、弱冠24歳の駆け出しのわたしが、8人の地謡のキャストの一人に選ばれていたのです。能楽最高の曲なので、本来はこんな若造が入れるわけもなく、もっと相応しい先輩方がいたのも事実です。しかし信高先生のご意志もあったおかげで、地謡に入れていただく事ができました。

 

通常の能は特にリハーサルもなく(必要なときは一度だけやり)、本番をむかえます。しかし、この時ばかりは、みんなで集まって全体稽古を、何回かしました。わたしがさせて頂いた地謡を謡うのは、当然難しかったのですが、とにかく、何に一番驚いたかというと、信高先生が演じられたシテ(主役)の、100歳になった小野小町の役の難易度でした。100歳になった小野小町が七夕の夜に舞を舞うというシンプルなストーリーです。しかし当時24歳のわたしは生意気ながら、先生の稽古風景を拝見した時に、あまりにもその主役小野小町役の謡や型が簡単すぎたので、「何が一子相伝なのだ、何で一年もかけるのだ」と、理解に苦しみました。

100歳の小野小町の役は杖をつき、謡の節もシンプルで簡単だし、動きも簡単簡素だったのです。何が難しいのか、全く理解できませんでした。自分だったら一週間で出来てしまう、とも思っていました。しかし、稽古を重ねていくうちに、能楽の本質というものが見えてきました。確かに、能楽には美しく見せるための技術、というものが存在しますが、最終的にはそういった技などを超越した世界になっていきます。だからこそ、100歳の小野小町という設定にする意味があったのだ、と気づきました。

 

能では、あの世の世界の人、つまり幽霊や、超人的な力をもった神様などをも演じますが、それはある意味で簡単なことなのです。あの世の世界の人なので。中世の時代を考えると、100歳というのは、今の感覚でいうと200歳くらいに相当するのではないでしょうか。しかしそれも人間なのです。

 

関寺小町の物語は、あの小野小町が100歳になって、ぼろぼろな姿で一人寂しくあばら家に住んでいる。和歌に詳しく文才のある老女が近所にいる、と聞いた関寺のお坊さんが、そこへ稚児を連れて七夕の日に訪れる。そして色々話しているうちに、そのお婆さんが小野小町だということが分かる。それが小野小町の成れの果ての姿だと知るわけです。稚児が舞を舞いだすと、その若さにつられて、杖をつきながらよろよろと昔を思い出しながら、七夕の夜に舞う。というものです。

 

100歳の小野小町は美貌も金もなく、何が残っているのかというと、若かった頃と変わらぬ『魂』です。能の最終地点は、死が目前に迫ってきている人間の集大成である生き様、心や魂を、舞台上で表すことなのです。そうなると、かえって技などは邪魔になってしまい、テクニックを使って美しく上手に見せることが、一切必要ではなくなります。

 

能楽の中で私の年代の40代という年代は、技術を追い求める世代です。その先の50、60歳が本当の役者のピークだと言われており、40代以降は、段々と身につけてきた物を、今度は捨てていく作業になります。そのような事を、関寺小町の稽古の最後の最後のほうに悟ることができました。「そうか技ではないのだ、『心』なのだ」と。関寺小町は一時間半の演目で、シテは真ん中にただ座ったままで存在しつづけ、最後の最後に舞を舞います。

 

本当はやってはいけないのですが、ふと本番中に小野小町に目がいった時、その姿に本当に吸い込まれました。金春信高先生の77歳の人生がそこに凝縮されている、とも感じました。信高先生はとてもご苦労をなさった方で、それまで、紆余曲折のある人生を経験された方でした。その舞台で信高先生には「何かすごい物を見せてやろう、がんばって何かをやり遂げてやろう、生き様を見せてやろう」などという思いは決してありませんでした。とても謙虚なお姿でした。家元の家で生まれ77歳まで能楽を精進しつづけ、こうして関寺小町を周りの弟子やたくさんの方の協力の上で勤めることができた、という感謝しかありませんでした。ご本人は淡々とやり、しかしながらその一挙手一投足が筆舌に尽くしがたくすごかったのです。それを見た時に、これが能楽の最高の世界だと思いました。まだこれから40年はわたしも能楽をしていくと思いますが、完全にあの舞台が人生で最高の能楽の舞台だと言い切れます。

 

ところが、信高先生は小野小町の姿で、その能関寺小町の終盤に、何と倒れてしまいました。能では地謡は決して何があっても途中で止めてはいけないという掟があります。ですので、先生が、目の前で倒れられているにも関わらず、囃子も地謡もそのまま止めずに続けました。そして後見というシテを手助けする黒子が慌てて飛んできて、信高先生を起こしました。信高先生は、それでも何とかして、杖をついて舞おうとするのですが、再度、倒れてしまいました。それなのに、また起き上がろうとする、という姿に国立能楽堂の満席のお客さまたちは、それが演出なのかどうか呆気にとられ、やがて、そうではないと悟り、客席中がすすり泣きの声が響きわたりました。「このままでは先生が死んでしまう!助けなければ!」と思うのですが、謡も止めることができません。

 

合計3回先生は倒れられ、それでも立ち上がり舞おうとしていました。続行不可能ですが能は続けなければならず、家元のご親戚の主後見の金春晃實(てるちか)先生が、裃の衣装のままで代役をつとめました。後日、信高先生にお話を伺うと、意識が全くなく覚えていないと言っていました。最後、先生は囃子方の後ろにおられ、その代役の晃實先生の舞が終わると、別の側近の弟子が手を添えて、橋掛かりを歩いて帰っていきました。

 

先生が弟子に手を添えられて橋掛かりを帰っていく後ろ姿も、一生忘れられません。あれこそ、金春信高という人が歩んできた人生そのものなのだ、と。どんなに後見に止められようが、倒れても倒れても舞続けようとした姿・・・どんなに苦しいことがあっても、明治維新以降、苦労と苦境の連続だった金春流復活の為、奔走し歩んで来られた金春信高先生の壮絶な「生きざま」を物語っているのだ、と思いました。

 

公演後、控え室に何人もの「自分は医者です」と名乗る方がみえ、翌日先生は病院へ行き、精密検査も受けられましたが、どこにも異常がありませんでした。終わったあと、意識が朦朧とする中で、先生はわたしたち弟子に深々と「申し訳ありませんでした」と手をつき頭を下げてくださいました。舞台がそのようになってしまった、という事に本能でそうされたのだと思います。

 

金春流は明治維新でとても苦境に立たされ、その不遇が長く続きましたが、信高先生は一代で立て直されました。それはこれから後世の人たちに評価されるだろうと思います。それくらいの功績を上げられた方です。そして、その先生の人生が凝縮された舞台姿を拝見した時に、人間が人間を具現化するという芸術の中でこれ以上のものはない、「能楽は世界最高だ」と確信しました。