和紙については、こだわりを持っています。1枚の和紙をナイフで、繊細に切り抜いて仕上げます。作品の題材によっては、薄い和紙を幾重にも重ねて奥行や立体感を出していきます。そして、自分のオリジナルの鮮やかな色彩で、質感も表現していくのです。

 

あと、私は、下絵を本にして出しています。その下絵を使っていただければと思います。下絵を作るのは、大変です。しかし、本当に大切なことですので、私の下絵を使うことによって、皆さんの助けになればと思います。(アマゾンで久保修と検索すると、久保さんの著作が10数冊出てきます(筆者)

 

 

”インタビューアの独り言  切り絵画家久保修の成功から学ぶこと。”

 

久保さんは、非常に穏やかな雰囲気の人だった。しゃべり方もソフト。南向きの明るいアトリエでのインタビューは、実に、心地良いものだった。福島での展覧会の直前にもかかわらず、ゆっくりと時間を取っていただいたのは嬉しかった。今回、普段の編集後記と違って、何が久保さんを成功させたのかを考えてみたい。それは、アートを目指す若者だけではなく、全ての人生の挑戦者に参考になるのではないだろうかと思う。

 

キーワードは、「継続」、「海外」、「ハングリー精神」、そして「訪れたチャンスをものにする」。

 

実は、インタビューの最初、未だ本題に入る前に、久保さんは、この47年間、紙を切り続けてきましたと、自己紹介をされた。久保さんが、社会に出始めたのは、バブルの前。世間がバブルに踊らせられていた時も、金融危機の時も、リーマンショックの時も、久保さんは紙を切り続けていた。決して、詳しくは語らなかったが、大変なこと、嫌なこともあったことだろう。今ある久保修という切り絵画家は、継続してきた延長線上にあり、今後も、きっとそうなのだと思う。まさに、「継続は力なり」ということを。もちろん、画家としての、才能は必要なのだろう。ただ、継続するということ自体も才能の一つではないだろうか。

 

「海外に出て異文化に触れたらどうだ。」 若い頃の久保さんに、作家の小松左京さんはそうアドバイスをした。そして、久保さんは、1年間、スペインに滞在して、そこで、新しい境地を開いた。久保さん曰く、「それまでの自分は、“はみ出し”ができなかった。スケッチブックの枠の中でしか描けなかった。」 「スペインの芸術を志す人たちは、自由にやっていた。」 その1年間のスペイン滞在で一番感激したのは、色々なものが、吸い取り紙のように、身体に吸収されたことだという。

 

その久保さんは、この10年、日本の国内だけではなく、海外に目を向けている。切り絵の新しい理解者を増やそうとして、伝道師のように海外に足を向けている。

 

今の、日本人、特に伝統産業や古典芸能にたずさわる人たちには、海外の需要を取り込むのだという気概が、もっと必要なのではないだろうか。例えば、手漉き和紙の生産者の方々は、国内だけでなく、海外に目を向ける必要があると思う。

 

切り絵画家の世界には、日本の古典的な芸術界に存在している家元制度などがないから、そういったものには、頼れない。それは、果たしてマイナスのことだったのだろうか?久保さんが、「弟子を取らない」と、いうことは、弟子やその弟子からお金も取れないし、作品を売りつけることもできない。まさに、裸一貫で、世の中を渡ってきている。船底一枚下は地獄というわけだ。そういうハングリー精神が、成長の根源にあったのではないだろうか。

 

自分を取り立ててくれる人がいたら、相手の懐に飛び込むことの大切さを痛感する。久保さんの場合は、それが、たまたま、小松左京さんだった。小松さんという理解者を得たことは、非常に幸運だったと、述べている。読者の中には、「普通の人には、そんな僥倖は、滅多に訪れるものではない」と、反論されるかもしれない。しかし、仮に貴方に、そういうチャンスが巡ってきたときに、自分のものにすることができるだろうか?久保さんを引き立てた小松さんは、きっと、若い頃の久保さんの持っている何かに、惚れたのではないだろうか。そういうものを持っていたのではないだろうか。

 

今回のインタビューでは、ある程度の年齢になったら、自分が生涯追及するようなテーマを持つことの大切さを、教えてもらったような気がする。久保さんのテーマは、「紙のジャポニスム」が、阪神淡路大震災がきっかけだった。久保さんはたまたま40歳代に見つけたようだが、人生百年の時代だから、40歳でなくても良い。60歳、70歳、80歳でも、いつでも良いのではないだろうか。

 

学ぶべきことは、きっと、他にもいろいろあるだろうし、久保さんだけが知っている何かもあるのかもしれない。芸術家を目指す人だけではなく、今、読者が戦っているそれぞれの分野でも、久保さんの生き方が何かのヒントになればと思う。