万能感は「努力すれば、なんでも実現できる」というポジティブなものではありません。えっ

ネガティブな考え方を出発点にして生まれたもので、自分が不幸であれば他者は何とかするという、他者をコントロールする発想です。しかしその企みはほとんど失敗します。

「率直、誠実、対等、自己責任」つまり健全で正当な自己主張が出来る人であるためには、あり得ない「万能感」を排除することが重要です。

自分は普通の人間であり、神ではないと再認識しましょう。こういうと、そんなこと分っていると思う人が大半でしょう。でも本当にそうでしょうか?

では、率直、誠実、対等、自己責任を実行できているでしょうか、どのような場面でもアサーティブでいることができるでしょうか?

神だと思っていないという意味は、「驕っていない」ということではないのです。自己否定、他者否定しないという意味なのです。裏返すと完璧な人などいないという意味になります。自己否定、他者否定しているので、遠い昔にすでに効力を失っている万能感に頼り、コントロール、支配しようとするのです。つまり支配とは自己否定感の強い人、自己効力感の乏しい人の戦術なのです。

なぜ、自己否定感が強く、自己効力感が乏しいのでしょうか。完璧でないと否定されると思い込んでいるからです。自分が否定され見捨てられる恐怖、自分がひとりで生きていけないという不安を消し去るために、完璧であることを自分に求めるのです。しかしどんなに努力しても完璧になることはありません。そこで他者否定をすることで、自己否定感を和らげようとします。

そして同時に安心を強く求めすぎ、イエスか、ノーか、白か黒か、右か左かという極端な選択肢を持ちます。これも現実的ではありません。ほとんどの場合、イエスでもノーでもない、白でも黒でもない、右でも左でもないのです。だからどちらかに寄せる努力、交渉が日常的になります。交渉では良い人間関係が基本になるので、
良い人間関係を作る努力と、作れる自分をめざすのです。

ところが幼い時から正当に主張しないで、支配によって願望を叶える体験を繰り返していると、必要な人、安心できない人には媚びへつらうことで支配する、そうでない人には見下すことで支配する、イエスかノーか、白か黒か、右か左かの発想による、どちらも他者を支配することに変わりのない仕組みを自分の内部に作ってしまいます。

責任を負わないやり方を基準にするからです。責任をとることを嫌います。なぜなら責任をとることは見捨てられる恐怖そのものだからです。率直、誠実、対等に不安を覚えて、なかなかそうしないのも見捨てられる恐怖からです。「遠まわし、正直でない、見下すかあるいは自己卑下、責任を負わない」ようにしていたら、責任は相手の主体性のなかにあると思う、思わせることができるからです。

万能感から脱出するには、責任を負うことを決意することです。イエスかノーか、白か黒かを捨てることです。つまりどちらかに寄せる努力を好むことです。失敗する可能性を認識した上で、失敗しないように努力する。結果が約束されていないことに向かうプロセスを好むようにすることです。成功したか、失敗したかが重要でなく、成功に向かって可能な限りの努力をするプロセスに本当に自分がいることを大切にして、尊重することです。えっ