熊野三山の〝三山〟という言葉は、どこか仏教的な響きがある。
お寺の称号に使う山号や、本山という言葉を思わせるためか。
熊野の大本山が三つ集まり「熊野三山」と言うことなのか?
実際は「大社」の名がつく、れっきとした神社たちなのに?
初め、そんな素朴な疑問があった。で、調べると、どうやら‥
本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)と言う、とお~い昔、
日本史の本で見た記憶のある、難解な言葉にぶち当った。
話が難しくなるので、ザクッとした内容で恐縮だが、
「本地は、本来の姿=仏、垂迹は、仮の姿=神々」のことを言い、
〝日本の神さんは、本来は仏さんやけど、人々を救うために、
神さんの姿をかり、現れてくれはるんやで〟と言う意味合い。
いわゆる、神と仏が融合する神仏集合(しんぶつしゅうごう)の
流れのひとつだが、神仏習合=本地垂迹ではない、と言う。
飛鳥時代、日本へ仏教が伝わった時、積極的に受入れた人々と、
在来の神々の怒りを怖れ、新しい仏教を排斥した人々がいて、
何回か争い(蘇我氏 Vs.物部氏)が続いたことは、知られている。
結果的に仏教は受入れられ、聖徳太子の強い政治主導もあり、
日本に深く浸透していくのだが、奈良、平安と時を経ても、
仏さん(仏教)と神さん(神道)とは、表向きは喧嘩することもなく、
うま~く歩み寄り、融合し、溶け合ってこられた。ようである。
“仏の教えは人だけでなく、迷える神をも導き、神はその仏の
教えを護る存在”と言う考えもでて、神仏ともに独自の宗教性
と文化を護りながら、少しずつ習合が行われてきたのである。
例えば、お寺に神さまが祀られたり、神社に神宮寺が建てられ
るなどの傾向は、奈良時代から進んでいたが、特に平安後期は、
神=仏だとする「本地垂迹説」へと発展し、流行したと言う。
平安末期は先にふれたように、末法思想により現世に絶望感が
蔓延した時代。“せめて、あの世は極楽浄土に逝きたいモンダ”
という必死の願いがあり、浄土教と阿弥陀信仰が強まっている。
その中で「熊野の地は浄土」と見なされ、熊野の三つの大社は
本来の主祭神と共に、本地・仏様の名も見出された。
つまり、熊野本宮大社の主祭神は、木の神として崇められた
家都美御子大神(ケツノミコノオオカミ)であられるが、
また本地は「西方阿弥陀浄土」の阿弥陀如来でもあられる。
また、熊野速玉大社の主祭神は、水の神として崇められた、
熊野速玉大神(クマノハヤタマノオオカミ)であられるが、
また本地は「東方浄瑠璃浄土」の薬師如来でもあられる。
そして熊野那智大社の主祭神は、結びを表し根元の力を与える
熊野夫須美大神(クマノフスミノオオカミ)であられるが、
また本地は「南方補陀落浄土」の千手観音菩薩でもあられる。
と、いろいろ、あられ、あられる。のだが、兎にも、角にも、
ここ熊野の三大社は、素晴らしい神のパワースポットであり
同時に阿弥陀さん、薬師さん、千手観音さんと仏教界きっての
三大スーパースターがおられる、正に現世の浄土。だったのだ
アァ、ゆえに「熊野三山」かと、ガッテン!した次第であられる^^
(また続く)