1、般若波羅蜜多心経を学び直しています。やはり、意味を知ってるのと知らないのとでは違いますね。 | ながおりょうじゅんのブログ

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日本でお馴染みの般若心経



内容について、日本ではきちんとした内容を学ぶ機会がなく、短絡的に「何もない」ってこととして広まっているので、チベット仏教から中身を学んでいる。

そして、疑問が出てきたのは

般若心経は600巻という膨大な量の大般若経の心髄を書いたものなんですけど、釈迦は般若波羅蜜について説いたのはたった1回しかないという事。

もう1つは釈迦は悟った最初に説いた教え(法則とか、四苦八苦とか、自分の感覚など)を、この2番目に説いた般若心経では全て空であると伝えたのは何故か。


勝手な想像をしてみた。

カースト制の厳しいバラモン教の中で、人は色々な環境や身分に生まれてそれから逃れることはできないとされてるが、釈迦は生まれた後の己の修練で、そこから逃れる事ができると説き、女人や悪人でさえも救われる真理を説いた。

釈迦が生きていた時代は、中東や中国方面からの民族が土地を占領しに来ていたのもあるし、インド内の国々も争っていた。
釈迦は北インドのネパールに近いところでクシャトリアというバラモンの1つ下の身分の王子に生まれた。
戦うことと国を繁栄させることが仕事だったわけです。
当時はバラモンの身分に生まれた者しか、成仏できないとされていた教えを、釈迦は自分の身分を捨てて修行し、バラモンに生まれなくても成仏できる事を証明した。

それも、釈迦は最初はバラモンに教えを請い、修行をしたが、途中からは離れて独覚(ひとりで悟った)した。

最初に悟った事が当時の常識とは全く違うし、当時29才の若造が悟った事も、その言葉も、受け入れられる事はないだろうとして、自分の内にしまっておく事にした。
でも梵天(古代インドの神様ブラフマー)と帝釈天(古代インドの神様インドラ)に促されて、伝え始めたのが仏教の始まりです。

この梵天と帝釈天に促された内容がいわば般若心経の部分ではなかろうかと思うんですね。

独覚というのは自分が経験してきた事の中で、真理を悟った人。だから他の人には理解は難しいと思い込むわけです。
梵天と帝釈天はそんな釈迦に悟った事を聞く耳を持つもの、見るものがいるから伝えよと、思い込みは空であることを説いたわけです。

梵天は創造神で帝釈天は武勇の神様。
おそらく、釈迦は托鉢しながら世間の情勢や民の声を聞いて、話をしたりして過ごしている内に、自然と自分の内にしまっておかなくても、わかる人にはわかるし、それで変わる人は変わる事を悟ったのだと思うのです。

それで、出家した後連れ戻しに来ていた五人の従者に改めて伝えに行って、それが受け入れられ、五人の従者は声聞(話を聞いて悟った人)となった。
そして五人の従者は釈迦の教えを確かめるべく托鉢したり、話したり実践をして、その効果が波及した。
そうなるまで結構時間がかかったと思うんですよね。悟ったって言っても人間ですからね。モチベーション下がるときもあるだろうし、最初の教え通りにならないこともあるだろうし。
でも、般若心経の空の教えも得ていただろうからコツコツと続けてこれたんだろうな。
でなきゃ途中で辞めてしまいたくなるはず。

あと、もう1つ感じたのは今でいう宗教によって起こされる争いや、救うどころか苦しみをもたらす事にならないようにしてるのではと思った。
苦しみの原因とか離れる方法を釈迦は最初に説いてるけど、次の般若心経ではその説いた教えは全て空であると説いて、釈迦の教えと従来のバラモン教の教えとが衝突しないようにしている。

ちなみに般若心経の次にできた教えが密教。
これはおそらく、ヴェーダの火神アグニを祭るものか、古代イランから伝わった拝火教(ゾロアスター教)かわからないが、1000人の弟子を持っていたとされるカッサパ三兄弟と関わった期間に、釈迦の教えで救われないものたちを救うすべが見いだされたのかなと思う。

自分の宗教の教えが正しくて、それ以外の教えは間違っているという妄信は、人々を救う目的から外れてしまう結果を引き起こす。


という想像。。。
あくまで想像。。。

2番目の疑問の答え・・・
あくまで想像の範囲だけど、今のところの解釈はこんな感じ。


ともあれ、大般若経600巻を濃縮してる内容は短絡的に「何もない」と解釈してはいけないなと思った。
やっぱ意味を知って空を理解するって大事。


日本にある般若心経は、インドのサンスクリット語を玄奘三蔵が漢語に訳し、それが日本にやって来たという経緯である。



大般若経という600巻ある内容を短くギュッと濃縮したのが心経・・・つまり「心髄」で、般若波羅蜜というのは、「彼岸に至る智慧」という意味です。

彼岸というと日本では死後の世界をイメージする言葉かなと思います。

釈迦は死後の世界について、弟子の質問にも沈黙を貫き、答えなかったと言われてます。
死は誰にでも訪れるもの、だからこそ死にとらわれて不安や心配や恐怖などに苛まれる人生ではなく、今に焦点を当てて、法を学び、実践をして自らが悟っていくように促した。

そうすると、自然と般若心経の空が直感的にわかるようになり、それを最期の死までも続けていくことが悟りの成就の達成となる。

1番最初の疑問、1回しか説かれなかったのは何故かってとこは、おそらく学びと実践をしていくと自然とわかってくるようになるからなんだろうな。



般若心経の真言は和訳すれば
「行け、行け、彼岸に行け、彼岸に正しく行け、さとりを成就せよ」というものです。
この真言は祈るものに加持を与える言葉で、真言の前にある咒のついた言葉たちはどんな真言かを説明している。


続きはまた次に。