木下英範のブログ
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足りないのはリーダー補佐の教育 - リーダーの流動性を高めるということ

これからグローバル競争がますます激しくなるのでリーダーを育成しろという。個人がスキルアップしなければ生き残れない時代になるという。しかしスキルとは相対的なものなので、全体がスキルアップしても結局は差はなくならない。あぶれる人が出ることには変わらない。

そのやり方で解決するのであれば全員のスキルを同レベルにするしかない。しかしそんなことは不可能だし、できたとしても向上心のない世界になってしまう。確かに国同士の戦いというのであれば、国全体のスキルをアップすれば他国に勝つことはできるだろう。しかしグローバル化とは国同士の戦いではなく、国を超えて国境に関係なく世界の人が同じ土俵に上がることを意味する。それならば国単位でのスキルのレベルを上げてもあまり関係がない。結局は世界の競争の中で格差はなくならない。

また全員をリーダーにすることはできない。リーダーというのもまた相対的な存在であり、補佐して付いてくるフォロワーがいるからリーダーなのだ。リーダーは多くの普通の人がいてくれるから初めてリーダーになれる。全員がリーダーになったらそれはただ、「各人がスタンドプレイでバラバラな方向を向く」ということでしかない。

そもそもリーダーを育成することはできるのか。リーダーとは本質的に自然に出てくるものだと思う。教育で作れるものではない。リーダーの本質は情熱だ。100人いたら1人くらいはやる気のある人がいるものだ。そして情熱は伝播する。情熱を伝播させることがリーダーの一番の役割なのだ。情熱はある日突然やってくるものである。それまでやる気がなかったのに急にやる気が出ることもある。

またそれぞれの得意分野も違う。すべての分野に秀でている人はいない。ある分野では引っ張り役なのだが、違う分野では引っ張られ役になるものだ。つまり時間軸と分野軸によって、ある時ある場所に突然リーダーが現れ、そして消えていくということの繰り返し。しがらみや年功序列のない社会ではリーダーというのはこういう風に現れるものだと思う。

問題はリーダーの足を引っ張る人がいるということだ。日本にはリーダー的な人が少ないとは思う、しかし情熱がないとは思わない。湧いてきた情熱を我慢してしまう、周りが足を引っ張ってしまう、だからリーダーが少ないのである。日本にジョブズのような人がいないと嘆くのであれば、それはジョブズがすごいのではない、ジョブズの存在を受け入れる風土がすごいのだ。そういう風土が作れれば自然とリーダーは現れてくるものである。

今は年功序列的にリーダーになる分にはある程度許されて足を引っ張る人は少なくなる。だから年功序列的に、リーダーになりたいなりたくないにかかわらず、仕方なくリーダーになっている人が多い。そしていったん地位が確定すれば、得意分野、不得意分野にかかわらず全方位において牽引役であり続ける。役職を固定するのは馬鹿なやり方だ。全方位において優秀な人はいないので、不能扱いされて愚痴を言われるが、リーダーから降りることはできない。不幸なことである。

誰もがリーダーにならなくてはならないという教育。スキルアップしないと置いて行かれるという教育。リーダーの流動性がない中で、そういう教育をすることは競争を強いることになる。競争は悪いことではないが、つぶし合う競争は無益である。リーダーは大勢の中の少数であって初めてリーダーなのだから、他の人がリーダーになると自分がリーダーになる確率は下がる。だから自然と足を引っ張る方向に向いてしまう。

本当に教育でやらなければならないのはリーダーの育成ではなく、リーダー補佐の教育だ。少数のリーダー教育より、大多数のフォロワーの教育のほうが効率が高い。教育とは大多数に施すから意味があるのだ。リーダーはある日突然現れること、自分もある日突然リーダーになりうることを教え、もしリーダーが現れたら、励まして、褒めて、おだてて、木に登らせること(嘘でも褒められたらうれしいものだ)。そういったスキルこそ大事なのである。人を励まして何かをやり遂げてもらうことは結構楽しいことだ。

これは戦後の日本の教育のように画一的な企業戦士を育成する教育をしろと言っているのではない。ただ言われたことだけを正確にこなす人間は教育で作れる。しかし人間の性質上、それはうっぷんを我慢して従っているに過ぎない。表面上は我慢しているが内部では多大なストレスがたまっているだろう。その逆で、リーダーとしての振る舞いと、リーダー補佐としての振る舞い両方を同時に教えるということだ。状況に応じてリーダーになったり、裏方に回って補佐役になったりできるような臨機応変な人材こそが望ましい。

リーダーは勝手に現れる。そしてそれをつぶすも育てるも周り次第だ。そのときに人をねたまず、うらやまず、リーダーを手伝って目的を達成することができるか。それができるならば、自分の情熱が沸騰してリーダーになったときに手伝ってもらえる確率が高くなる。周りが温かい目で見てくれるならば、情熱を我慢せずに思いっきり発露することの躊躇がなくなる。

リーダーをねたんでしまう人もいる。リーダーは他に抜きん出てたくさん働いて世の中をよくしてくれるので、まったくねたむ必要も恨む必要もないのだが、そう思えない人もいるだろう。人の成功をねたんでしまうのは、自分の自由が奪われると思うからだ。その人が自分のコントロールの及ばぬところへ行き、自分の思い通りにならなくなる。そしていつか自分がコントロールされてしまう。そう思うから成功者を忌み嫌うのだろう。だがそのうちにリーダーが回ってきていつか自分も主導権を握ると思えば、そういうねたみも少なるなるのではないか。

イノベーションを起こすにはリーダーの強い情熱が必要である。しかし今や世界のどこでイノベーションが起きてもそれを時を置かずして享受できる時代になったのだから、出る杭を羨む必要はなく、応援して手伝うことが自分にとっても最も利益の高いことである。

生き残れるようにスキルアップしても、誰もががんばれば差はなくならない。全体としての解決にはなっていない。しかしスキル格差というのはよく見れば得意分野が違うというだけのことが多い。誰しも得意なものは持っているもので、それが発揮できていないのは配置の問題だ。地位の細分化と流動性を高めれば誰もが最適配置につきやすくなる。

リーダーの数を多くするということは組織の粒度を小さくすることに他ならない。これは価値観が多様化するこれからの時代には正しい。しかしリーダーの数に比べてそれ以外の人が圧倒的多数でなければ成り立たないことにも注意せねばならない。だからリーダーになるということより、リーダーを支えるということのほうが圧倒的に大事なのだ。しかし支えてばかりではいやになるし、地位を固定化するのはよくない。

リーダーはプロジェクト単位でどんどん交代するのが望ましい。時と場合によって自分がリーダーになるし、他の人がリーダーになる。リーダーの流動性を高めること。そういう意味では全員がリーダーであり、補佐役である。そういう雰囲気が醸成されればもっと楽しく住みやすい世の中になるだろう。



クラゲの不思議

クラゲはプランクトン

クラゲはプランクトンに分類されます。プランクトンは一般に顕微鏡で見るような小さい生物のことだと思われていますが、プランクトンの定義は「遊泳能力を全く持たないか、あるいは遊泳能力があっても水流に逆らう力が軽微であったり比較的小型の生物であるため結果的に漂うことになる生物」(Wikipedia)ですので、ほとんど遊泳能力を持たないクラゲ類はすべてプランクトンなのです。

クラゲの種類

一口でクラゲと言ってもいろいろな種類があります。 クラゲは主に「刺すクラゲ(刺胞動物門)」と「刺さないクラゲ(有櫛動物門)」に分類されます。 さらにその中で体の形によって細かく分かれます。ではそれぞれの例を見ていきましょう。

【刺すクラゲ(刺胞動物門)】  
 刺胞とは毒針を発射できる細胞のことです。刺胞動物門のクラゲはすべて針を持っていて獲物や外敵を攻撃します。 

・まるい傘のやつ(鉢クラゲ類)
 代表:ミズクラゲ
木下英範のブログ-ミズクラゲ  
水族館でおなじみ、白くてお椀型で四つ目を持ったあいつです。白くて半透明なので照明に当てるととてもきれいです。傘のふちにある白い点は眼です。日本近海で最もよく見られるクラゲで、隅田川の河口付近にもたくさんいます。一応、触っても大丈夫。 

・箱型のやつ(立方クラゲ類)
 代表;アンドンクラゲ
木下英範のブログ-アンドンクラゲ 
こいつは港にいることが多いですね。行燈みたいな凧みたいな形。ちっこくて3cmくらいです。が、触手は20cmくらいあります。網膜もついた高性能な眼を持っています。触ると刺すので注意。

・変な形のやつ(ヒドロクラゲ類)
 代表:カツオノエボシ
カツオノエボシ 
こいつは砂浜に打ち上げられているところを見ることが多い。青い空気の入ったビニールみたいなあれ。刺されると非常に痛いので危険です。触ってはいけません。

【刺さないクラゲ(有櫛動物門)】
 刺胞は持っていません。体は透明で、体の表面に櫛(くし)状に繊毛を持っていてそれで泳ぎます。

・ネオンみたいなやつ(クシクラゲ類)
 代表:ウリクラゲ
ウリクラゲ
虹色に輝くクシ(繊毛)が美しいクラゲ。水族館では繊毛による光の干渉そのメカニズムに思いを寄せてうっとりと見入ってしまいますね。

いろいろなクラゲ

・アカクラゲ
水族館で人気のきれいなクラゲ。傘から放射状に伸びた赤い縞模様が特徴。細くて長い美しい触手を持ちます。うまく育てると触手はとても長くなるので、触手の長さによって水族館の力量がわかります。
アカクラゲ 

・タコクラゲ
元気に泳ぐ丸くてかわいいクラゲ。褐色の傘に白い水玉模様があります。体が褐色なのは褐虫藻という光合成をする生物を体内に住まわせているから。褐虫藻とは共生関係にあり外敵から守る代わりにエネルギーをもらっています。
タコクラゲ 

・サカサクラゲ
逆さになって水底に沈んでいたり、壁にくっついている不思議なクラゲ。進化上イソギンチャクとクラゲの中間なのかもしれません。サカサクラゲも褐虫藻を持ってるので光合成でエネルギーを作ることができます。
サカサクラゲ 

・エチゼンクラゲ
最大のクラゲ。傘の直径2m、重さ150キロにもなります。拍動は雄大で貫禄があります。黄海から日本海に渡ってきて漁網にかかり漁業被害をもたらします。
エチゼンクラゲ 

・ヘンゲクラゲ
体が柔軟でいろいろな形に変化できる面白いクラゲ。
ヘンゲクラゲ 

・ギンカクラゲ
上から見ると銀貨のような美しいクラゲ。水面に浮いて滑走します。
ギンカクラゲ 

・ハナガサクラゲ
派手!電飾がついたようなクラゲ。
ハナガサクラゲ 

・オワンクラゲ
触ると青白く発行します。生化学実験の分野で非常に有用な緑色蛍光タンパク質(GFP)を持つ。オワンクラゲを研究した下村脩博士にノーベル化学賞をもたらしました。
オワンクラゲ 

クラゲの一生

クラゲの一生は種類によって異なりますが、だいたい下記のようなライフサイクルを持っています。
・海中に放出された精子と卵子が受精
・受精卵からゾウリムシ形状のプラヌラ幼生が生まれる
・プラヌラ幼生が岩場に着底し、イソギンチャク形状のポリプとなる
・ポリプから小さなクラゲ体であるエフィラが複数離脱
・エフィラは海中を泳ぎながらプランクトンを捕食し、クラゲへと成長
※立法クラゲ類にはエフィラはありません。ポリプがそのまま泳ぎだし、クラゲになります。 ヒドロクラゲ類はポリプが複数に分裂し群体を作ります。

クラゲの生活史 
クラゲの生活史(技術評論社「クラゲのふしぎ」より)

いったいクラゲが主体なのか、ポリプが主体なのか。不思議な生体ですね。クラゲ体は植物でいえば「花」なのではないかと思っています。有性生殖をおこなうために放たれた遠隔装置なのではないでしょうか。

ベニクラゲは不老不死(若返る)

ヒドロクラゲ類のベニクラゲは不老不死で有名です。ベニクラゲには寿命がありません。何回でも若返って生き続けることができます。有性生物で不死が発見されているのは今のところベニクラゲだけです。成熟したベニクラゲが損傷や環境ストレスを受けると海底に沈みます。全体が解けて肉の塊になり、キチン質で体を覆い、海底に付着します。やがて根と茎が伸びて、ポリプへと戻り、そこからまたベニクラゲが生まれてきます。こうして自分一人で子供から大人へ、また子供へと繰り返し(永遠に?)生きることができるのです。

一方で、ベニクラゲは有性生殖をして受精卵から子供を作ることもします。ベニクラゲは体の一部分だけ若返ることができません。生殖をつかさどる口柄(こうへい)だけは若返ることができないのです。若返る前に口柄は切り離されます。これは生殖部分とその他の部分を分化させることで不老不死を獲得したと言えるでしょう。

もともと無性生物である単細胞生物は寿命がありません。性は進化における環境適応のために獲得されました。そして性の獲得と寿命は密接に結びついています。生殖後のDNAはもうコピーを残したのだから生き残る(不死である)必要がないからです。寿命は性を獲得したことによる代償と言えるでしょう。しかしベニクラゲは進化の過程でいったんは寿命を持っていたものと思われます。それがまた不老不死を獲得したのは新たな退化と言えるのではないでしょうか。だからこそ注目されているのでしょう。

ベニクラゲ 
ベニクラゲ

クラゲの刺す仕組み

クラゲの大きな特徴と言えば毒針で刺すことです。クラゲの触手には刺胞細胞と呼ばれる毒針を納めた細胞が密集しています。刺胞細胞にはセンサーとなる刺がついていて、センサーに何かが触れると矢じりのようなものを突き出す仕組みになっています。その間わずか0.7マイクロ秒、時速に換算すると134kmほどのスピードになります。矢じりで対象の皮膚に穴を空けた後は、矢じりが割れて中からストローが飛び出します。ストローはあまりにも細く長いのでどんどん皮膚細胞の奥に侵入します。そしてストローの所々に空いた穴から毒液が注入されます。ここまでで0.3秒ほどしかかかりません。すばらしい武器です。

世界で最も毒の強いクラゲはオーストラリアのキロネックスで、毒を一万倍に薄めてもマウスは数秒以内に死にます。人間が刺された場合は15分で死亡します。生物最強の毒といってもいいでしょう。日本では沖縄に住むハブクラゲが最も危険で、死亡例も多数あります。しかし実は毒性の強さはミズクラゲのほうが上なのです。でもミズクラゲは触ってもほとんど何も感じません。なぜなのでしょうか。これは刺胞のストローの長さによるのです。ハブクラゲはストローが長いから毒がよく効くのです。ミズクラゲの刺胞では人間の皮膚の奥には侵入できません。ですからクラゲの危険性は毒性だけでは計れません。刺胞の性能や数といった総合評価で判断しなければなりません。

毒の弱いクラゲでも2回刺された場合は「アナフィラキシーショック」を起こすことがあります。これは1回目に刺されたときにできた抗体が2回目に刺されたときに過剰反応を起こし、じんましんやショック状態を引き起こします。水族館の人は掃除のときにミズクラゲの水槽に入るが、唇を刺されてヒリヒリすると言っていました。とにかくクラゲには触らない方が身のためでしょう。

アンドンクラゲ刺胞発射の瞬間
クラゲに刺されたら

クラゲに刺されてしまった場合はどうすればいいでしょうか。クラゲによって毒の種類が違うので一概には言えません共通で有効なのは下記です。

①刺された場所を確認し、触手が着いていたら取り除く。このとき素手で触らずに、ピンセットかティッシュを使用し、決して擦らずそっと取る。
②海水をかける
③冷やす
※ハブクラゲの場合は酢をかける

日本沿海で危険なクラゲ

・ハブクラゲ  
沖縄沿海で6~9月に発生。強力な針を持ち、刺されると死亡することがある。傘の直径15cm、触手1.5m。

・カツオノエボシ  
青いビニールのような気泡体で浮遊するヒドロ虫の仲間。刺されると電気ショックのような強い痛み。毒は呼吸中枢に作用するため呼吸が止まる危険がある。気泡体は10cm、触手は10mに達する。

・アンドンクラゲ  
6~9月に発生。刺されると強い痛み。傘の大きさ3cm、触手20cm。 

世界で最も長い動物はクラゲ

シロナガスクジラは30mですが、それを超える世界最大の長さをもつクラゲがいます。「クダクラゲ」で、体長は40mにもなります。厳密にはクダクラゲはヒドロ虫の仲間で、たくさんのヒドロ虫がくっつき分業しながら暮らしている群体生物です。
クダクラゲ 
クダクラゲ

なぜクラゲの触手は絡まらないのか

長くて絡まりそうに見えても実は絡まりづらいのです。ソーメンを水の中でかき混ぜても絡まらないように。長い触手をもつタイプは触手が切れやすくなっていて、絡まっても切れて、また再生します。

クラゲの拍動

クラゲの伸びたり縮んだり脈打つような拍動はなんのためにあるのでしょうか。泳ぐためと思っていた方、3分の1くらい正解です。実は泳ぐためというより、クラゲの拍動は呼吸(ガス交換)と体液循環のためにあるのです。クラゲには心臓も肺もありません。体内物質を循環させるには全身で動き続けなければならないのです。まさに全身が心臓、クラゲの拍動は太古の心臓の姿とも言えます。生命の歴史の中で、クラゲのリズムは我々の心臓のリズムとどこかでつながっていて、だから見ていると不思議な安堵感を覚えるのかもしれませんね。

後記

クラゲについて調べようと思ったのですが、クラゲの生態について詳しく書かれた一般文献はほぼ、参考文献で記した「クラゲのふしぎ」のみです。後は水族館で聞いた話と、ネットで散見できる情報、自分なりの分析を織り交ぜました。逆にいうとまだこれだけしかクラゲに関してわかっていないし、研究が進んでいないということなのでしょう。

<参考文献>
「クラゲのふしぎ」(ジェーフィッシュ)
すみだ水族館

刺胞 - Wikipedia

自分が生まれてきて世界にプラスになったかなんてそれはわからない - ただ好きに生きればそれでいい

「自分が生まれた世界と生まれなかった世界を考えて、生まれた世界のほうがちょっとでも価値が高まるように生きよう。その差分を広げよう」

という考えがあるが、これはよい考えではあるが少々浅はかと言ってもいいだろう。


たとえば「世界にとってよいこと」という定義は非常に難しい。何が良いことなのか、それは人間にとってなのか、動物はいいのか、自然はいいのか。たとえば人間にとってだとして、一人の女性を愛して結婚して一生を共にしたとしよう。その一人の女性に幸福を与えて、世界にプラスになったと思うかもしれない。だけれどもその女性が別の誰かと添い遂げていればもっと幸福だったかもしれない。その場合は自分が生まれたことによって生まれなかった世界よりもマイナスになってしまったことになる。


たとえば会社を作って社会に貢献したとしよう。しかし会社が赤字ならば社会にとってはマイナスを及ぼすことになる。マイナスの価値しか生み出さない会社が社会に居座ることによって、ほかのもっとよい会社の進出を妨げているのだから。しかし、10年間の赤字を続けてその後大成する会社もある。多くのITスタートアップがそうであるように。10年間の赤字を続けてつぶれてしまうかもしれないし、10年間赤字を続けた後、大成功して赤字を100倍取り戻すかもしれない。


それは誰にもわからない。だが失敗を恐れて何もしないのであれば、それこそ世の中は何も始まらない。一人の女性を愛することによってその人を不幸にしてしまうかもしれない。でもそれでいい。自分が生まれることによって、自分の行為によって世界がプラスになったかマイナスになったか、そんなこと考えなくてもいい。マイナスが転じてプラスになることもあれば、プラスが転じてマイナスになることもあるのだから。


ただ一つ心がけることがあるとしたら、他人のマイナスに思える行為を見たとしてもそれを許すことだ。それがマイナスかプラスかは現時点ではわからないのだから。

雇用不要論

雇用の喪失が最大の社会問題だと言われる。政府の役割は雇用の維持だと言われる。経済も雇用を創出するためにあると言われる。社会情勢を計るにはいつも失業率が問題になる。失業率が上がると経済が下向いたと言われる。雇用の維持、安定はどの国でも政策の最大課題である。

しかしどの国の雇用政策をみてもあまりうまく行っていないように思える。まず政府のやることは解雇規制の強化。これは雇用流動性を失わせ、経営者は従業員を新しく雇いづらくなり結局雇用は増えない。次に労働者への助成金。これは正社員の雇用は安定させるが、非正規社員は置いてけぼりを食う。となると次にくるのが非正規労働者の保護、そして非正規労働者の正規化。これは非正規労働者にとっては処遇向上になるかもしれないが、最下層に位置する失業者を増やし、かえって問題を悪化させる。これらの政策が労働生産性を低下させ失業率が高止まりし、経済を冷え込ませさらなる悪循環に入っていく。各国の首脳が四苦八苦している様子を見ると雇用問題は非常に難しいものであるようだ。

しかしよくよく考えてみる。雇用とはなんだろうか。何のために働くのだろうか。働くことはいろいろな意味がある。食べていくため、人の役に立ちたいため、自己実現のため、承認欲求のため。しかし今の仕事で本当に好きでやっている人がどのくらいいるだろうか。もし有り余る財産を持っていたら今の仕事を続ける?続けると答えられる人は好きでやっている仕事だ。しかしほとんどの人がやめると答えると思う。ほとんどの人が嫌々仕事をしているのだ。

本当に仕事が重要なのか。本当に雇用が一番重要なのか。我々は楽になるために働いているのではないか。働くのも遊ぶためもしくは自由に暮らすためにお金を稼いでいるのではないか?我々は働くために生きているのではなかったはずだ。それがいつの間にかお金を稼がなければいけない社会になり、労働が美化される社会になってしまった。

仕事とは仕事をなくすために存在しなければならない。決して仕事を作るためではない。我々の目的は雇用を維持することではない。嫌な仕事を無くして楽に暮らすためにがんばっているのだ。そうでなければがんばる意味がある?

どんな仕事が嫌な仕事か。それは人それぞれであるが、ある程度共通しているものがある。単純でつまらない仕事だ。ゴミ拾い、掃除、流れ作業、体に悪い作業、危険な作業、長時間の作業などなど。よく考えると今の大半の仕事が多かれ少なかれ当てはまる。やりがいがあると言われている仕事でも半分はこうしたどうしようもない作業に明け暮れているのではないか。働いていて楽しいのは一日3時間くらいであろう。

ほとんどの人が仕事はしたくないはずだ。だがしかし朝起きると嫌々みんな会社に向かう。これが本当に正しいのか?正しい社会なのか?幸福なのか?理想とはほど遠い。

しかし中には楽しい仕事もある。創造的で自分を表現でき、学べて、めっちゃ楽しくて、世の中の役に立つ仕事だ。こういう仕事は遊びとほとんど区別がつかない。遊び=仕事である。未来の仕事は遊びであるべきだ。遊びはなんで楽しいのか、それは義務ではなく自由に好きなことをやるからだ。

みんなが遊んで暮らせる世の中を目指そう。人間らしい最も高度な行動は遊びなのだ。単純作業はどんどん機械やロボットにやらせるべきだ。我々の仕事は仕事をなくすためにのみ捧げられなくてはならない。

先進国にくらべて途上国の労働力は安い。だらか雇用はどんどん途上国へと流出する。途上国に工場が造られる。ネットを使って知識労働も途上国へとまわされる。しかし途上国の安い労働力もいずれは高止まりする日がやってくる。

現在のグローバル化の流れは、まず冷戦が終わったことで共産圏の労働力が解放された。世界の安い労働力を使うとこうことが主流となり、中国を始めBRICs、アジアの勃興へとつながっていった。今は世界的に西から東へと富=仕事が移っていく過程をみている。しかし地球人口は限りがある。この規模での労働力の解放はもう二度とない。世界を西から東へ回ってアフリカまでいったら終わりである。

しかし永遠に安い労働力がある。それは機械・ロボットである。機械はエネルギーさえ投入すれば動き続ける。賃上げを要求することもない。劣悪な労働環境であっても文句は言わない。そして機械の数を増やせば増やすほど安い物が大量に作れるようになる。うまく設計すれば機械は自分自身を作ったりメンテナンスできるようになる。

人的な安い労働力を使い切ったあとにはもうオートメーションしかない。そして我々はすべての労働をオートメーション化すべきだ。将来仕事がオートメーション化され遊んで暮らせる世の中になる、そう思えばこそ今のつらい仕事もなんとかやり通せるというものだ。そうでなければ救いが無い。

オートメーション化の過程では職を失う者が出てくる。必ず職からあぶれる人が出てくる。みんな一斉に仕事やーめた、となればいいがなかなかそうはいかないだろう。一部の人の仕事が無い状態がやってくる。そういう人々に資源を配分しなければならない。理想郷への橋の途中では職がある人と職がない人が混在することになる。職のない人を保護しなければならない。その人々は遊んで暮らせる世界でのクリエイターなのだから。遊んで暮らせる理想郷では新しい遊びを考えることが仕事になる。

職に就いているすべての者は自らの仕事をオートメーション化して、自ら首を切る覚悟を持たなくてはならない。最後に自分の仕事をやってくれる機械、コンピュータのスイッチを入れ敬礼し職場を去る。美しい光景ではないか。

まずは最低限の衣食住の自動生産から始める。最低限の服、最低限の食べ物、最低限の住処。このくらいは今の技術でも自動生産できるはずだ。郵便局がつぶせないというならば自動でパンを作って置いておく場所にすればいい。簡単な衣類を自動で作って配ればいい。画一的な住居ならほとんどの部材を自動生産できるはずだ。

我々が目指すのは雇用の創出ではない。雇用という概念をなくすことだ。雇い雇われということをなくすことだ。そうでなければ理想郷には近づけない。理想郷は理想郷だと言うかもしれない。でも一歩でもそれに近づける可能性があるならやってみるべきだ。

ムダな仕事が多すぎると感じるから。仕事を作るために仕事をしていると感じるから。週に5日会社に通わなければならないから、暇でも8時間勤務しなければならないから、ムダな仕事が作られるのだ。無理に仕事を作るのは罪である。でもそれは仕方が無い。会社にいて暇ならば仕事を作るしかないのだから。この文化を変えていく必要がある。

まずは週休三日。このくらいは今でもできると思う。週休三日を実現するために今少し我慢してオートメーションの仕組みを作るってことならなんとかがまんしてやっていけそうではないか。

現在はまだまだ物は自動では作れない。働いて稼ぐ以外の制度も価値観も醸成されていない。だから雇用は今しばらくは必要とされるだろう。だがそろそろ雇用がなくなるという理想の社会を夢想してもいい時期に来ているのではないだろうか。

ちょっとした反論

Chikirinの日記 「自然エネルギーか原発か」という議論の不毛


その4までのエネルギーの全体感については、今の視野の狭い議論では不毛で、もっと俯瞰して話をしなければならないということで大いに同意したのですが、その下を読み進めていくとなんとなく違和感が残りました。なぜ違和感があったのかずっと考えていたのですが、それはエネルギー源から実際に使うエネルギーへの変換装置の議論がすっぽり抜け落ちているためだとわかりました。


石油はそのままでは使えません。自然に湧き出している石油を偶然に発見し、火をつければ燃えるかも知れませんが、それだけでは殆ど役に立ちません。たとえば水車を回せないし、車も動きません。石油はその埋蔵場所・量を特定し、採掘して精製し、それを燃やしたり加工したりする装置によってやっと有用なものにに変換できるのです。


エネルギーを人間にとって有用なものにするには、この一連の変換装置が必要でなのす。たとえば石油ならば採掘から発電所までの装置です。太陽エネルギーであったら太陽光発電パネルであり、太陽熱発電所です。つまり、エネルギーの使用効率はその変換装置にも拠っているということです。


風力や太陽光などの再生可能エネルギーでは社会をまかないきれないということですが、今後変換装置の効率が上がらないと結論づけることができるでしょうか?タイムマシンに乗って50年後に行き、効率が上がっていない現実を見てきたのならば断定できますが、そうじゃないならば未来にどんなイノベーションが起るか予測はできないので、再生可能エネルギーの効率が未来に渡って上がらないとは断定できないでしょう。50年後の世界に太陽光でエネルギーの半分をまかなっている未来もありえると思います。その他にもマグネシウム とかいろいろな可能性があります。


石油が発見された当時、その有用性が予測できなかったのは変換装置の効率が悪かった、あるいはなかったからです。当時の人の気持ちになってみれば、なんだか知らないけど燃える水が湧き出しているところがある、でも量も限られているしこんなものは使い物にならない。石炭や水蒸気のほうがずっといいと。でもめげずに石油を掘って精製を試みた人がいたはずです。その人がいたからこそ今の文明があるのです。


もし、薪や水車を使っている時代に石油が発見されたとしたら、当時の人達はこう言ったはずです。


石油エネルギーの比率は、5倍から10倍がせいぜいであって、薪の3分の1以下、水車の10分の1に過ぎない。モノを作るには、大量のエネルギー、動力が必要であり、相当に効率のいいエネルギーでないと現代社会は維持できない。この点、薪・水車のエネルギー産出/投入比率は圧倒的であり、石油エネルギーで現在の社会を維持するのは無理。(質素な生活をすればいい、というレベルではなく、人口の大半が維持できない=死ななくてはならない。)


再生可能エネルギーの本当の未来について理解したい方は下記の文献を読まれることをお薦めします!読んだことないですけどね。

脱「ひとり勝ち」文明論


そんじゃ~ねぃ

新リーダー論

有能なリーダーが出てこないと嘆く向きがあるが、人々のこれだけ多様化した価値観、思惑を自信を持って代表できる勇気のある者はいないだろう。また選ぶ方も自信を持って選ぶことはできない。すべての分野に秀でた聖人君子はいない。我々はともすると全知全能なリーダーを捜し求めてはいないか。そもそもそんな人はいないのだ。価値観や文化が幅広く細分化した現代ではなおさらだ。しかしそれはさけられない変化だし、それでいいのだと思う。


我々はそれを克服する方法を考えねばならない。一人のリーダーが全員の利益を代表する時代は終わりを迎えつつある。しかしこれはリーダー不要論ではない。むしろ最強のリーダーの作り方である。


「アホで無能」な我々だが、一人一人には必ず得意分野がある。何か一つに特化していなくても、組み合わせればかなりのレベルになるというものが少なからずあるはずだ。それを収集し、表明できる技術、そして自らが社会に参加したいという価値観は醸成されつつある。


一人一人の得意分野は違うのだから、起こり来る諸問題に対してその場その場で最も適した人に任せればいい。誰が担当するのかはその場で手を挙げればいい。あたかも、飛行機の中で急病人が発生したときに「この中にお医者様はいらっしゃいませんか?」と呼びかけられて、手を挙げるような感じだ。複数人が立候補した場合はその場でアンケートを取って決めればいい。


誰もが民衆であり、(なろうと思えば)誰もがリーダーになれる社会。しかし今のところ政治家になるにはちょっと敷居が高い。それは政治家が担いすぎているからだ。高い供託金を納め、ポスターを作って選挙カーで叫んで、握手をして回るなんて何の意味があって誰が得をするだろうか?たとえば街路樹を一本どこに植えるか、これを決めるリーダーならば誰しも可能であろう。そういう単位でいい。それだけで自分や社会を見る目が変わるだろう。参加意識が芽生えるだろう。


有事の時に優れた才能を発揮する人が平時の時にも優れているとは限らない。環境は時間とともに変化するので「今」優れた人を選んでも3年後も同じ能力を発揮できるとは限らない。

その場に応じてすぐにリーダーを選べ、頻繁に変更できるシステム。そのほうが望ましい。つまりガチャピンを作るということである。中身が自由に入れ替えられるガチャピンこそが最強なのだ。そうなるとその実態はもはやリーダーではなく「専門家」である。


もう一国の利害をすべて担える一人のリーダーなど存在しないし、いらない。そもそもトップ権力、総理大臣や大統領などは民衆の代表者だ。ならば民衆の総意を集められるネットワークを手に入れた以上、代表者の必要はない。ネットワークで集計された民衆の意識と専門家、それだけでいい。細分化された価値観グループに応じて細分化された政策が必要になる。それは情報量から言って中央計画で補えるものではない。自分たちで決めるしかないのだ。


リーダーは我々全員である。最終責務を負うのも我々全員だ。それには直接民主主義やGov2.0といった取り組みをさらに進める必要がある。直接民主主義のベースができれば、求心力の中心としてカリスマ性のある象徴(アイドル)を置くのも面白いかもしれない。それはバーチャルなキャラクターでもよい。できれば歌がうまくて美しいほうがいい、そして、、まあいい。


昨今なぜ人々はリーダーを求めるのか。なぜリーダー待望論が台頭してくるのか。それは価値観が多様化し、他人の価値観を身体感覚として察しにくくなっているためであり、それが不安につながっているためではないか。

それでは何故価値観が多様化したのか。世界人口の増加ももちろんあるが、近代の「個人としての自由を求める」という意味のリバタリアニズムによって旧い組織体、共同体が解体されてきたからだ。その結果、気がついてみれば欲望丸出しの「個」がそこに置かれていたという構図だ。それがグローバルなITコミュニケーションにより混ざり合いカオス状になった。


我々が意思を表明するにはどうしたらいいか。それはまず情報収集をすることだ。興味を持ったことについて徹底的に調べる。身をもって経験してみる。蓄積した情報は意識下で熟成される。そして情報が一定量たまると自然に答えが出てくるものだ。そしてその意識をTwitterやらFacebookやら井戸端会議やらなんでもいい、発信するのだ。その発言の総意が世論を形成し、世の中を動かしていく。そうなる時代がもうすぐやってくる。

ただ、無意識を抽出するのはよいが、政策の選択は意識的に行う必要があると思う。我々は「自分が選択したんだ」という思いからモチベーションを発揮する生物であるから。


<参考>
ティム・オライリー特別寄稿:ガバメント2.0―政府はプラットフォームになるべきだ
【動画版】茶会ちゃんねる特別編: 東x白田の一般意思2.0について語る

選挙の勝ち方 - 私が選挙に出るとしたら

次の選挙に私が打って出るとしたらこのようにするだろう。


無所属新人で立候補する。そしてすべての政治、政治家への反対表明をする。今までのすべての政治勢力も政府も全否定だ。誰とも組まない、誰の思想をも受け継がない。


そして掲げるマニフェストはただ一つ。


「ネット選挙を実現する」


私はこのために生まれてきた。このために生涯を捧げる。ネット投票の実現。それ以外を思想を私は持たない。当選の暁にはすべての判断はネットにゆだねる。つまりネットを通じてアンケートを収拾し、その通りに発言する。私は一切の意見を持たない。一切の思想を持たない。


人は「できる」ということがわかるか、わからないかである。0を1にすること。これこそが大事なのだ。0と1とではまったく違う。0を1にできるのならば、1を2にすることは簡単だ。1を10にすることも100にすることも簡単である。人は「できる」ということがわかってさえしまえば、容易に行動に移せる。往々にして革命とは0を1にすることから始まる。すべての雪崩は一粒の砂粒から始まる。たった一つの砂粒が砂上の楼閣を崩すのだ。


(以上、飲みの席の会話で思いついたことでした)


長所と短所の総量は同じ

人はそれぞれ長所を持っています。水泳が得意な人、計算が速い人、手先が器用な人、笑顔が素敵な人、機転が利く人。

人はそれぞれ短所を持っています。運動音痴な人、怒りっぽい人、細かい作業が苦手な人、後ろ向きな人、理屈っぽい人。

それではこのようにバラバラに見える長所・短所を整理してみましょう。そうすると必ず1対1になっていることがわかるでしょう。

反抗的⇔自立的、頑固⇔意志が強い、いい加減⇔おおらか、あきらめが悪い⇔粘り強い、興奮しやすい⇔情熱家、仕切りたがり⇔リーダーシップがある、八方美人⇔誰にでも好かれる、気分屋⇔臨機応変、慎重さに欠ける⇔楽観的、目移りが激しい⇔好奇心旺盛、お節介⇔面倒見がよい、引っ込み思案⇔謙虚、口べた⇔聞き上手、迎合⇔協調、優柔不断⇔柔軟、甘やかす⇔包容力、気が弱い⇔繊細、いい加減⇔平和主義、自分を責める⇔まじめ・勤勉、鈍感⇔打たれ強い、頭でっかち⇔思慮深い、理屈っぽい⇔理論家、神経質⇔几帳面、臆病⇔慎重

短所の反対には必ず長所が見つかります。どんな短所にでもです。長所を持っている人はその反面として必ず短所も併せ持っているのです。そして一人の人間の中にはたくさんの長所と短所があります。また、長所が大きければ大きいほど短所も大きくなります。そしてその総量は同じです。ビジュアル的には下図のようになるでしょう。

$木下英範のブログ-長所と短所

長所を伸ばすと反対側に短所も伸びます。一方、短所を克服すると長所もなくなってしまうのです。

この長短のポートフォリオをどう組んでいくかは個人の方針によりますが、なるべく他人と違うユニークな組み合わせを目指していった方がいいでしょう。短所を克服するよりも、短所は放っておいて、長所を伸ばした方が成功の確率が高いということは統計でも証明されています。

なぜそうなるかというと、上記で述べた理由からなのでしょう。だから短所は気にしなくていいのです。また他人の短所に対しても寛容になりましょう。なぜなら大きな短所を持った人は逆に大きな長所もどこかに持っているのですから。

自分が適わないような才能を持った人でもどこかに大きな短所があると思えばやっかむこともなくなるでしょう。

短所は他人同士互いの長所で補っていけばいいのです。そのために人は仲間を作り、組織を作り、社会を作っているのですから。

他人になりたいと思う?

今、あなたは誰か他人になりたいと思うだろうか。もし、あの人になれたら、入れ替われたらどんなに幸せかと。だが、おそらく歳と共にそういう気持ちは小さくなっていくはずである(少なくとも自分はそう思う)。

それはなぜか。それは徐々に自分を乗りこなせるようになっていくからだ。自分の長所や短所、どうやったら自分は喜ぶか、どうやったら悲しむかを知っていく。そして自分の才能や向いていることに目覚めていく。

知識というと、外部からの影響や、経験から来る認知だけを想像しがちだが、「自分に対する知識」もまた重要な知識である。

だからある程度自分の乗りこなし方をマスターしてくるともう他人になりたいという感情は起らなくなる。今から他人になったら、また一から自分分析をやり直さなければならないのだから。

「恐怖」というものは自分の外側にあるのではなくて、自分の内側にあるものだ。外部からのある刺激に対して、自分がどういう反応を示すかわからない。これが恐怖である。どういう反応を示すか(めげるにしても泣くにしても)がわかっていれば恐怖にはならない。恐怖とはすなわち自分の内なる未知の部分なのだ。

また、「幸福」も同様に自分の内側からわき上がってくるものだ。自分はどういう存在なのか。どういうことに真の喜びを見いだすのかを知っていれば、自ずと幸福はわき上がってくるだろう。

自分を知るには少なくとも30年はかかる。今、私は35年かけて自分という者を知ってきたが、さらに上があるのだろうか。いやたぶんある。40歳、50歳になって今の自分を振り返ったとき、なんて自分という乗り物の運転がヘタだったのだろうと思うことだろう。それは楽しみなことである。

人を信じること

人を100%信じていこう。ときにはだまされるかも知れない。詐欺に引っかかるかもしれない。それでも100%信じていこう。だまされたっていいじゃないか。命まで取られることはない。詐欺師だって好きでやっている者はいない。仕方なく嫌々やっているんだ。

「良心」というのは人種や宗教を超えて共通のものだ。どんな国や環境に生まれようがなにが良いことか、悪いことかは直感的にわかっているはずだ。生まれつきわかっているんだ。子供を愛さない親はいないように。だから信じよう。他人を自分を。人を100%信用しよう。

「信頼」はコミュニケーションの効率を上げ、生産性を上げ、社会を豊かにしてくれる。逆に信頼がない社会は荒廃していく。人は信じて貰えないからウソをつくんだ。だから人を信じて生きよう。

100%人を信じて生きる人生ではときにひどい裏切りに会うかも知れない。それでもその人を許して、次からはまた信用しよう。

これは非常に難しいこと。でも努力しよう。人を100%信じられるように努力しよう。人を100%信じればウソは必要なくなる。自分がウソをつくことから解放される。

だまされてもいい。でも自分は人をだましてはいけない。人をだまして一時的には成功するかもしれない。でも長期的には決して成功しない。それは世の中を見回してみれば、詐欺師よりも正直に誠実に商売をしている人が多く成功していることからもわかる。

「正直者は馬鹿を見る」とよく言われる。たしかに馬鹿を見るだろう。しかし同時に幸福を手に入れることができる。不正直は馬鹿を見ないかもしれない。しかし長期的に幸福になることは決してない。

信頼関係を築くというのはウソを許さないということではない。ウソをつかれても許して、なおその人の本質を信頼していくということだ。

その場の雰囲気や防衛心によりウソをついてしまうときもあるだろう。その場合にはすぐに謝って、そのときの気持ちを正直に説明しよう。相手が謝ってくれたときには快く許そう。たとえ謝らなかったとしても本人は罪悪感を感じているはずだから許してあげよう。

人を信じればお互いに正直になれる。例えどんなに怪しく見える人でも信じてあげよう。少なくとも最初は信じてあげよう。そうすることでどんなにその人が救われるか。そして初めてその人は正直になることができる。

人を疑う世の中よりも人を信頼できる世の中の方がいいに決まっている。そのためにはまず自分から人を信じることだ。人を100%信じて行動してみよう。はっきり言って今の世の中はウソも欺瞞も少なくない。だから人を100%信じて生きると傷だらけになるだろう。それでもそういうふうに生きていきたい。どんな仕打ちを受けても折れない心を、どんなにだまされてもその人を恨まない心を私は欲しい。ウソをつかれてもその人を信じ続けられる強さが欲しい。
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