福島駅界隈の線路付け替え地(1) | 晴耕雨読 -田野 登-

晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。

今週末、11月1日、
浦江塾で「昭和30年頃の福島駅界隈」を話しますが、
さすが60年の歳月を経ますと
すっかり鉄道線路が変化しています。


この地におきましては、
昭和30年頃、
地上を走行していた旧国鉄西成線が高架に、
高架を走行していた阪神本線が地下に
微妙に位置を変えて営業運転されています。


写真図1 「昭和30年頃の福島駅界隈の地図」
   拙著2007年『水都大阪の民俗誌』和泉書院




⑲が旧国鉄西成線「福島駅」です。
「浄正橋通」を隔てて東に
阪神本線「福島駅」がありました。
それは⑳で、現在は地下駅になって
南に移動しています。


これらは路線が廃止されたのではありません。
線路の付け替えが行われたのです。

「廃線」を
*「交通路線や通信線などの使用を廃止すること。
 また、その交通路線や通信線」と
定義づけるならば
云えなくもありませんが、
 *「交通路線や・・・」: 『広辞苑』第六版「廃線」
鉄道事情に明るい中村雅俊氏に尋ねましたところ
「線路の付け替えでしょう」とのことで
「線路付け替え地」として述べることにします。


まず旧国鉄西成線を取り上げましょう。
昭和30年頃の福島駅をボクは
次のように記憶しています。
以下、拙著2007年『水都大阪の民俗誌』和泉書院
「「水都」周縁のマチの心象地図」を引用します。
当時、お婆ちゃんに連れられての散歩道のコースに
国鉄福島駅はありました。
●駅
 玉江橋に連れて行って貰えるのは、

アイサ(時たま)のことで
 アイダ(普段)は浄正橋筋の交叉点の北の方の
 国鉄の福島駅(⑲)あたりが遊び場所である。
 改札口の東の柵の外には輪タクが、

いつも客を待っていた。
 一行は、汽車に牽かれる貨物列車の

通るのをじっと待つ。
 いつも50いくつも繋がった車両を

数えていた。(中略)


写真図1 現在のJR福島駅




現在は高架駅になっていますが、
これは国鉄西成線が国鉄大阪環状線になって以降、
*1964(昭和39)年のことです。
 *1964(昭和39)年:
  ウィキペディア「福島駅 (大阪府)」
  最終更新 2014年2月8日 (土) 03:23


「「水都」周縁のマチの心象地図」は
次のように回想しています。
●・・・西成線は、福島駅を過ぎると
 変電所を左に見て大阪駅に向けて
 急な坂を登り始める。
 貨物線は、轟音をとどろかせて
 そのまま地ベタを行き

東海道本線のガード下を潜り、
 梅田の貨物駅(北区大深町)に抜ける。


写真図2 福島駅―大阪駅間の線路跡①




環状線の線路の下に左下から右上に
斜めに石垣が組まれています。


写真図3 福島駅―大阪駅間の線路跡②




「心象地図」に云う「急な坂」がはっきりと見えます。
福島駅から出かける時は、この坂を登り
帰って来る時は、急な坂を下ってきました。


福島駅から野田駅にかけての地上の線路の跡は
1964(昭和39)年から50年を経た今日、
視覚的に確認ができます。

廃線跡地の調査に馴れておられる方々なら
すぐに気づかれることでしょうが、
帯状に時に湾曲した空間です。


写真図4 地上の線路跡




線路跡は、現在、駐車場になっています。
白線が描かれています。
左上に高架が見えます。
現在の大阪環状線の高架です。

写真の左に築地塀が見えます。
お寺です。

「心象地図」では次のように記しています。
●寺
 三光寺の前を進んで、
 省線西成線の踏切を渡り切った所に、
 日蓮宗・岡松寺(⑨)という寺がある。


ボクが小学校高学年の頃
昭和35(1960)年頃、
たしかに
このお寺の北東、
実家からは踏切を渡って左に曲がった所に
仮設の福島駅があったと記憶しています。


このように50年を経た今日、
線路付け替え地を黙認することができます。
詳しいことは浦江塾で話します。


浦江塾のご案内は
   ↓ここをクリック
http://ameblo.jp/tanonoboru/entry-11944528622.html
「浦江塾で昭和30年頃のマチを回想します」
2014-10-27 09:54:10


浦江塾への参加手続、参加費は不要です。
ただし30名分しか資料を準備しませんので
お早めに会場にお越し下さい。


究会代表 田野 登