私は匿名アカウントで長いことTwitterを利用してるけど、流石に先日の某有名作家の「韓国人(国民)はクズ」という発言には唖然とした。

私の母は韓国人でしたがクズではありませんでした。人のよいお母さんでした。

私の母は終戦の前年に日本で生まれ育ちました。日韓が国交を回復した1965年頃日本人の父と結婚しました。両家の反対は強かったらしく、結果的に駆け落ちのような形になったようです。その後、母は一人で日本人社会で暮らしていました。
その三年後に兄が生まれ、さらに三年後に私が生まれました。私が生まれたとき、両親は風呂のない古いアパートで暮らしていました。近所には親戚縁者はいませんでした。

母は若い頃からずっとパートをしていました。私が物心ついた頃、母はスーパーやまぐちの二階の託児所に私を預けてレジ打ちをしていました。夕方になると母はお店のお菓子を買って迎えにきてくれました。

その後、母は書店で働き返品になるてれびくんやテレビマガジンやらの付録をもらってきてくれました。私たち兄弟はそれでゴム鉄砲やらを作って遊んでました。

同じ頃、母は近所のパン屋でパンの耳をもらってきて、それを細かく切って油で揚げて砂糖をまぶしてお菓子を作ってくれました。私たちはパンの耳を食べていました。

その後、母はヤクルトおばさんをやっていて、冷蔵庫を開けるとジョアがいっぱいありました。ノルマで買ってたのかしら。
その頃、日中国交回復があって、パンダブームでした。母はヤクルトの内職で販促のパンダのブローチに紐を結んでいました。私が母にいくらもらえるのか聞いたら1本5円だって。当時既に駄菓子屋で5円で買えるものはコーラ飴しかありませんでした。それ以外は全て10円以上でした。ですから母の賃金がどれだけ低いかは幼稚園児の私でも分かりました。
それで私は母が目を離した隙に代わりにせっせと紐を結んだのだけど、結び方が雑で母が呆れていました。しかし母は怒りませんでした。

それから母は昆布工場で昆布を洗う仕事をしていました。その頃、私はおたふく風邪にかかり、悪化して1ヶ月寝込んでいました。夕方の変則的な時間に母が帰ってきてバナナやヨーグルトを置いてまた元の職場に帰って行きました。結局、私はおたふく風邪の後遺症でムンプス難聴になり、以来左耳が聞こえなくなりました。母はこれを知って半狂乱になり広島中の耳鼻科に私を連れて行きましたが、あとの祭りでした。私は診察後に街のソフトクリームを舐めるのが楽しみでした。
母はその後、二、三年メンタルを崩していました。体育座りをして顔を伏せて泣いていた。私は隣で小さく体育座りをして母親に話しかけていました。
またあるときには、突然、母が私に抱きついて「ごめんなさい、ごめんなさい」と大声をあげて泣き出した。私はきょとんとしていた。私自身、子供で右耳がよく聞こえていたこともあって、自分の左耳などどうでもよかったのです。

それから母はカルシュウム剤とビタミンCを売り歩いた。私はこれらをラムネのようにポリポリと齧ってました。

それから母はアパレルのオンワードで働き始めました。
ある冬、母が「ファミリーセールがあるので職場においで。邪魔になるから搬出口においで」というので、私が白い息を吐きながら小学校近くのその事業所の搬出口に行ったら、母が冬なのに倉庫で汗をかいて台車を押していました。私はひとりで服の中でかくれんぼをして遊んでいました。
しばらくして母が戻ってきて「何でも買ってあげるから好きな服を選びなさい」と言ったのだけど、ファッションに興味のない子供の私には、オンワードの服はどれもこれも高すぎて申し訳ない気がしました。しかし銀のジャンパーを買ってもらい、しばらくはそれを着ていました。

その後、母は朝日生命で保険の仕事を長くしていました。

おかげで兄も私も大学を出ることができました。私は母と父に足を向けて寝ることができません。

その母も昨年の四月に亡くなりました。

私の母は韓国人でしたが、クズではありません。

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