四万温泉に行く途中、
世界遺産・国宝富岡製糸場に立ち寄りました。

ちょうど良い時間だったので
11:00からのガイドツアーに参加。
地元の方々がガイドをしてくださいます。
参加者は20人ほど。
ひとりひとりにイヤホンを渡され、ガイドさんの声がマイクを通して聞こえてくるので、広い館内でもよく聞こえました。

かつて博物館でガイドツアーをしていた側としては、これは画期的!とテンションUPアップ


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さて、富岡製糸場の歴史をざっと解説。
※長いです

◼︎明治3年(1870)
「官営製糸業設立の議」が議決される
明治維新後間もなく、新政府が殖産興業政策の主力として目をつけたのが製糸業。
当時の日本の輸出産業はほとんどが絹糸で、輸出売上高の8割を占めていたこともあったとか。
しかし品質にバラツキがあり悪評もたったことから、品質安定大量生産を目的として国が建設した。

◼︎明治5年(1872)
操業開始
工女が働き始める
工女は製糸場の中で住み込みで働く15~25歳の女性のこと。

◼︎明治26年(1893)
民営化(三井家へ払い下げ)
名称を三井富岡製糸所とする

◼︎明治35年(1902)
原合名会社に譲渡
名称を原富岡製糸所とする

◼︎昭和13年(1938)
片倉製糸紡績株式会社に経営を委任
翌昭和14年、名称を片倉富岡製糸所とする

◼︎昭和62年(1987)
操業停止
中国産絹糸が安価に輸入
ポリエステル、キュプラなど化学繊維が流行

◼︎平成26年(2014)
世界遺産登録
国宝指定
(明治以降の国宝建築としては迎賓館の他はここだけ)



***



生まれて間もない明治政府が殖産興業のために
富岡製糸場を作ろう!と考えたわけですが、
知識も技術も乏しかった日本は
フランス人ポール・ブリュナ(後の首長=工場長)等に設立指導を依頼しました。

製糸場の敷地は東京ドームの1.2倍
サッカーコートにすると7個分
主要施設である操糸所と繭を保管する東置繭所・西置繭所がコの字型の設備になっていて、合理的な形なのだそうです。

壁面がレンガ造りだったり
首長館や女工館はコロニアル様式
窓の鉄枠がフランスから輸入したものだったりと
見かけはだいぶ西洋化しました。
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ですが使っている建材はほとんど日本製
レンガをつなぐのは漆喰だし
そのレンガも礎石も屋根瓦も日本製
それも原料はほとんどが群馬県内で採取されだのだそうです。
日本で初めて避雷針が設置されたのも富岡製糸場だとか。

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↑避雷針を通していた部分

***



工場で毎日朝から晩まで働いていたのは若い女性です。
なぜ女性にしたのかはわかりません。
が、ひとつの蚕から出る1本の糸は光に透かさないと見えないほど細く、年齢のいった眼には辛い作業だろうなというのは想像がつきました…(^_^;)
私の年齢ではもう無理です

彼女たちは敷地内に寝泊まりしていました。
制服、食事に診療代が保証される好待遇(工場内に診療所があった)。
さらに当時としては滅多にできなかった
毎日お風呂に入る」事が可能でした。

能力給だったので、やればやるほど待遇アップ。
最上級の一等工女は全体の2割ほどだったそうです。
うーん。
働きアリ2対8の法則がここでも…?
ということは、がんばれば誰でも1級になれる可能性があったということですね

高い技能を身につけた工女は各地に散らばり技術を広めていきました。
工場の体制も設備も技術も
全国の製糸工場の見本となったのが
ここ富岡製糸場でした。


ちなみに一等工女の年俸は25円程度。
(明治初期の1円は今でいうと2万円位。※諸説あり)
開業当時の首長(工場長)であったフランス人技師ポール・ブリュナの年俸は750円。
当時の総理大臣の年収が800円だったそうなので
ブリュナは相当な待遇で迎えられていたようです。
(官営工場時代は赤字だったみたいですけどね)

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***



座繰り(手作業で行う伝統的な糸繰り)の実演がありました。
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繭はカイコガのさなぎです。
そのままだと硬くて糸を引き出せないので
熱湯に浸けながら作業します。
(絹糸の成分セリシンは温めると柔らかくなるため)
カイコガの幼虫が吐き出した糸が繭ですので
絹糸は動物性蛋白質ですね。
この動物性蛋白質を熱湯に浸けると…

もうなんとも言えない臭いがします

ゼラチンを熱した時の臭いに近いかな…
とにかく、この場で長時間作業をするのは過酷すぎます

工場ができても作業工程は基本的に同じ。
機械を見る限り、巻き取る部分はマシンが行いますが
糸を仕掛けるのは工女が行っていたのでしょう。

当時の工場の写真を見ると
皆さんマスクもなしに笑顔で働いていますが…
これが普通だったら明治時代で私は生きられません…
臭いがキツイのは耐えられない…




糸繰りを行う工場が繰糸所
腰屋根が付いていて、蒸気を逃す構造になっています。
常にお湯が煮えたぎってる訳ですから
夏場などは相当な暑さだったでしょう。

現在工場に保存されている総長140mに渡る糸繰機は
日産プリンスの元となった
プリンスという会社が開発しました。
生糸の輸出量が中国に負けて下火になってくると
日本は糸繰機を開発した技術力で
機械の輸出にシフトしていきます。



富岡製糸場は
明治以降の日本の産業の歴史を垣間見ることができる遺産なのでした

ガイドツアー、オススメですよ
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