「どうも、この度はお見舞い申し上げます・・・そして、お悔やみ申し上げます・・・」
「いやいや、話してたしゃ、次の日にしゃ、まさがこんなことにしゃ、なっと思わなかったしゃ。1日遅がったらしゃ、料理長さんもしゃ、お陀仏だったなしゃ」
震災以来2か月ぶりに大内さんとお会いした、最初の会話でした。
震災にあわれているにもかかわらずにっこり私に笑い、瓦礫となった自宅を片付けていました。
彼は私たちに弱いところを全く見せず、言葉もまた震災前と変わらず仙台弁の「しゃ」でした。
意外と元気な大内さんをみて、少しホッとしました。
私が今日お会いした大内さんは、昨日ブログに書いた農家の方。
今後も仕事でお付き合いをさせて頂く方になります。
大内さんは震災当日、九死に一生を体験し、その話をブログに書くことにしました。
「宮城沖地震の時もしゃ、津波警報出たんだけどしゃ、さっぱり来なかったからしゃ、みんな逃げなかったのしゃ。」
大内さんの自宅は、普段おきる地震の時にも津波には縁がなく、海岸からは約4kmも離れたところにありました。普段作業したり私たちと打ち合わせをするビニールハウスも自宅のすぐ傍で、実際に私が見ても「まさかここまで来ないだろう!」と思わせる場所にありました。
震災当日、大内さんは大きな揺れに見舞われながらも、ビニールハウスで作業をしていたそうです。
揺れが来て大内さんには時間が短く感じたようです。
「外に出たらしゃ、電柱よりも高いしゃ、真っ黒い波が見えだのしゃ!」
津波の第一波が迫りくるのが見えたそうです。
その津波が見えたと同時に、周りからは「助けてぇー!!」という悲鳴があちこちで聞こえ、一瞬気持ちが躊躇したそうです。
助けなければ・・・
「早ぐおらいの車さ乗れ!!」
しかし波はだんだんと迫ってきたとのことです。そうこうしているうちに足元にはジワジワと海水が浸りはじめ、助けたい気持ちはあっても自分も逃げなければ危ない!と感じたそうです。
大内さんは津波と反対方向へ車を走らせましたが、時すでに遅し。躊躇したことが仇となり津波にのまれたそうです。
「真っ黒いしゃ、波がドバーってきてしゃ、車は持ってがれたんだしゃ!」
大内さんの乗った車は津波に弄ばれ、ゴロゴロと転がったそうです。上も下もわからない状態で転げた車の中で気を失い、目を覚ました時には車の中は既に海水で満杯だったそうです。
目を開けたくても真っ黒い水中のため自分がどこにいるかも分からず、左右上下も分からないまま、とっさにダッシュボードにペンチを入れていたのを思い出したそうです。
呼吸もできず、すべてが見えず、つかんだペンチで無我夢中にあちこちを叩いたそうです。
下のほうを叩いたとき、何かが割れる感覚。運よく車の窓を割ったためそこから這い出したそうです。
「その時しゃ、腕切ったんしゃ」
呼吸ができない苦しさで必死にもがきながら水面を探したそうです。水面に出るまでには津波の勢いと流れのため体が二転三転とし、なかなか水面に顔を出せなかったそうです。
やっとの思いで顔を出した時には、たくさんの人が流されていました。
「助けてぇー、助けてぇー」
と、流されながら助けを求める人の声・・・
その中に大内さんの息子さんもいたそうです。
「おやじ!俺も大丈夫だがら、おやじも頑張れ!!」
息子さんは流れてきた木材に体を紐で括り付け、常に浮いている状態にしていたそうです。
大内さんも息子さんに声をかけながら、流れてきた木材に体を括り付けたそうです。作業していた前掛けを利用して・・・。
体には沢山の廃材や瓦礫がぶつかってきたそうです。
引き波が起き、二波、三波と津波が来たそうです。
「一波も大きいとしゃ、思ったけどしゃ、3回目が一番大きかったしゃ」
瓦礫にもまれながら、二波の引き波に体が遊ばれ、その時に息子さんとは離れてしまったそうです。
木材に頭を休ませ、引き波に身を任せていた時に見えた三波は第一波の津波よりも大きく、壁が迫ってきていたように見えたそうです。
三波の津波にのまれた時は完全に肉体は波に弄ばれ、丸太や瓦礫が容赦なく体にあたり、また大量の黒い水を飲んでしまっていたために気が遠くなるのを感じたそうです。
大内さんは運よくはっきりとした意識で目を覚ましました。
周りには沢山の瓦礫があり、また沢山の人に囲まれ、必死で声をかけたそうです。
「早ぐ、こっちさ来いしゃ!丸太さ掴れしゃ!」
手繰り寄せて見ると、その方は既に亡くなっていた方だったそうです。
またその方の反対側には鼻血をだした子供が見えたそうです。大内さんは再度声をかけ手繰り寄せました。しかしその子も亡くなって浮いていたそうです。
生きていたと思った理由としては、手繰り寄せたご遺体の総てが、目を開いたままお亡くなりになっていたそうです。薄暗くなってきた海上では生きているように思えたそうです。
大内さんが意識を取り戻してから、ずっと自分は田んぼの上を漂っているものだと思っていたようです。そこが沖合であることに気づくまでには時間はかかりませんでした。波のウネリに任せ、亡くなった人が立ち上がるのだそうです。それも1人、2人だけではなく、大勢の方が立ち上がるのだそうです。
最初はウネリとは思わず、人が立ち上がるため、助けを求めるために苦しくてもがいているものだと思ったそうです。しかしその方に声をかけても一向に返事はなく、遠くには閖上(ゆりあげ)漁港が見えるために自分が沖合にいるということを自覚したそうです。
「ホントしゃ、地獄見たしゃ」
大内さんのまわりには50を超える遺体が漂い、その中で生きていたのは大内さん一人だったと言います。
長時間海水に体を浸けていたため、体が硬直していくのを感じたそうです。そして雪が降り、着ていた服がだんだんと白くなり、3度目に気を失う前に「もう駄目かな?」と初めて弱音を感じたそうです。
ガタガタと震える体は、丸太に体を括り付けたまま、沖合を漂ったそうです。
大内さんが次に気を取り戻したのは、ヘリコプターの音で気づいたそうです。
自衛隊のヘリが2機、大内さんの上を通り過ぎましたが大内さんには気づかなかったようです。
数機のヘリが通り過ぎる度、ヘリの吹き返しで水面に波が立ち、大内さんは海中に潜ってしまったそうです。
大内さんは18時間ぶりに無事に救出されました。
救出されたときは低体温症で、体温が32度しかなかったそうです。また海水を大量に飲んでいたためにお腹はパンパンだったそうです。
大内さんはそのままヘリで日本海総合病院へ運ばれ、10日ほどで退院できました。
私は、これほどまでに津波に揉まれながら10日で退院できる大内さんは、よっぽどの強運の持ち主なんだと実感いたしました。
その後残念ながら、津波にのまれながらも大内さんを励ました息子さんは、遺体で見つかったそうです。
しかし大内さんの奥さんは未だ行方不明のままだそうです。
昨日ブログで言っていたラーメン店の店主、水耕栽培のハウスにいた二人もお亡くなりになったそうです。
ハウスにいた農家のお二人は、大内さんの身内で、妹の旦那さんとその娘さんだったそうです。
大内さんの自宅前では、顔をも知らない方3名のご遺体が見つかり、今日もまたご遺体の捜索が行われていました。
大内さんは息子や奥さんの死に対し全く弱音をはかず、私たちとの仕事について取り組む姿勢を見せました。
今日別れ際、「大内さんの元気な顔を見に来たんだよ」って声をかけました。
大内さんは「涙出ること言うなっしゃ」と笑いながら私たちと別れました。
災害地はだいぶ復興が進んだ様子に見えますが、それは見た目だけで、本当は人としての安らぎをフォローしなければ前には進めないように感じます。
<震災直後と2か月後・・・東部道路高架橋下>