(上記の図は三段階よりも少し細かく記載)



大きく三段階に分けて、人間のクオリティを見る事が出来ます。



第一の主義者

味、匂いの強さ、目で見た量、感情的な悦び(苦しみ)の強さを基準に日常を振る舞います。悦び(苦しみ)は、対象毎に独立して定量的に存在していると認識している唯物主義者です。この人達は対象の事象を生成の因果関係から切り離して考えるので、悦びに向かう(苦しみから逃れる)を繰り返す事が得であると断定しています。なので、旅行や衣服等の消費購買(モノとの導通、新しさ)によって全体性を回復します。

それが一種の主義に基づいた信仰であることを客観的に捉える事が出来ません。ヨコの回転の流れの多くに反応している状態です。幼少期から特定の空間に対して努力して進みを感じず、周りのコミュニティや事物の変化ばかりを意識したことで、このようになります。



第二の主義者

特定の空間を掘って、作業の進みを体感している人です。経営という言葉の原意の実践です。経、物事を縦に定義付けて、営、外郭がついていく。会社経営に限らず、家族経営、友人経営、異性経営、またユダヤ教、キリスト教、イスラム教、ヒンドュー教、仏教等、いずれかの限定的空間の中で縦方向の空間を認識して日常の諸判断の基準にして過ごします。枠組みの中で、真実の方向へ進みを体感し、セーブし、また進みを体感するこの道は第二の主義にあたります。



第三の人は、それぞれの限定的空間内の真実の方向への進みは、他の限定的に見える空間と完全無欠に連環している事を全身で悟っている人です。これは既に限定的な空間の信仰ではないため、主義と表現する事は出来ません。隣同士に見える限定的な空間はいずれも、より抽象的な空間と持続する時間の中で繋がっていて、その段々の因果関係(一本の時間)が分かっています。この場合、不可抗力的にその終局に付き従う事になり、全的に進みを体感して、セーブしてを繰り返す事になります。




※注釈

第一の主義が蔓延る国家(団体)の多くは、政略的に文化(ヨコではない、縦の時間の持続)を切り取られた後、平和を謳った広告に騙されたケースがほとんどです。(過去には日本もそうしましたが、例えば私達の団体がM&Aで買収先の企業がモノとの導通ラインの生産位置(エンジニアリング資本)に基づいた従業員1000人の集団性であれば、ヨコの時間(広告的平和、社会主義的責任関係)を用いて一旦吸収する事になるでしょう。現状、現象欲的(第一の主義的)な新人スタッフを一旦社会主義的に(常時タスクの隣の責任関係で)統治するのと同様です。



日本では GHQ占領時の植民地化政策後、第一の主義の人口が急激に増えました。


(※GHQ占領政策 3S政策(スポーツ、セックス、スクリーン(モノとの導通とロマンスを国民の最大生産位置に変更)、天皇人間宣言(抽象性のマキシマムの撤廃)、女性の権利上昇(抽象性に基づいた女性と男性の凸凹撤廃)、労働団結権の保証(ヨコの連環を善と定義)、秘密警察の解体(町内での物質化度合いの調査報告の撤廃。 )、軍の解体(外交における主体的な交渉権の剥奪)、国体に基づく財閥の解体(団結力の解体)


無条件降伏とはこのようになるのです。終戦記念日は、敗戦日(実行支配決定日)


現在では、原因と結果、生産諸関係、文化、成した事、成されて来た事の意味をヨコの時間にされた被洗脳者が量産されました。沢山の人間達が一方的に事物に関係付けてそれを解釈する日々です。


存在というのが、コトからモノに流れている事を知りません。具体化された認識の人が支持する数の論理においても、モノからコトではなく、コトからモノが生起しているという感じ方が世界史において多数派である事を知りません。


文化という縦の時間の持続の途中に西洋近代科学が漂っています。西洋近代科学は最終的に空間的共在性まで誘いますが、被洗脳者は限定的空間(モノとモノの間)のテクノロジーと西洋近代科学の全体性を混同してしまうので、構造主義的に理解しようとする方がインテリジェンスだと考える者まで増えてしまいました。



瞑想の表層部分だけを切り取って確認することを観測と言います。モノの流れの観測を信仰している事を唯物主義と言い、近代になってからいくつかの国家で流行しています。世界中の国家が抱える保守とリベラルという構図の政治問題については、ヨコの時間(第一の主義から第一の主義)の民主主義か、縦の時間(第三の前提から第一の主義の許容)の民主主義かで揉めています。


卓球が出来た理由が、テニスを室内で出来るようにしたという風景(ヨコの時間の歴史)が生産関係なのではありません。そうであれば、私は自分の役員報酬を振り込んだから役員報酬を得ている事になります。こうなると完全に原因と結果から切り離されて風景(歴史)だけを認識して、匂い、味、悦び(苦しみ)の量に反応し続けてしまいます。


テニスも卓球も経(縦の時間の中で、途中の空間的共在のラインの経験)によって、営(周囲のモノで外郭をつけて)生起しています。


全ての現象には、独立したそれ自体の側から力があるのではありません。また戦後民主主義的な意味の自由意志は存在しておらず、本来的な意味の自由意思(戻る方の動力、知性)と、ほっといてオートマチックに浮つく(物質化してゆく)動力(近代的な自由意思、思考)しか存在しておりません。

これは極端な話ではありません。実際にそうなのです。