スガシカオのライブに行った。

裾がアシンメトリーなスーツで、現れたシカオちゃん、変わんないわー。カッコええわあ。

シカオちゃんのライブは本当に久しぶり。行っていたのは、未だ何者にもなれない自分にヒリヒリしていた頃。

成人式すぎたって、結婚したって、子供産んで人の親になったって。

わたしは何なんだ?

望んだ仕事と申し分ない家庭とがあるのに、なんだかわからないけど、口にする言葉を失いがちになっていた頃。

シカオちゃんの歌をどっぷり聴いて、どっぷり暗くなっていた。
「もっと追い込めよ、わたしを」
と思っていた。

家族以外の人と話そうとすると、言葉が霞のように消えていく。伝えたい言葉がなくなるのではなく、伝えたいことが何だかわからなくなるのだ。

何がきっかけだったかは思い出せない。とあるラジオ局へメッセージを毎日FAXで送るようになった。毎日毎日。同じ番組に日に2回送ることもあった。自分が書くことを誰かが読んで、それに反応してくれる……それが救いのようなものになった。
今もそのFAXの大量の原本はとってある。なんとなく、保険のような、安心の担保のような。

そんなFAXの中に、シカオちゃんのライブの感想を書いたものもあった。
シカオちゃんの歌は、わたしにとって、「パンドラの箱」であると。

嫌なこと、苦しいこと、見たくもないこと。それらを徹底的にさらしてくる歌。現実なんてさ、そんなものなのさ。それでも、ほんのり、こんなふうに……と、やわらかな希望をちらりと見せてくれる。

今日、「黄金の月」を聴きながら、やっぱりパンドラの箱だなぁと思った。泣けたわ。

今、文章を書くことを生業にしている自分は、やっぱりあの頃がベースとなっていると思う。それは、ありがたい。妙に、気持ちが穏やかになっているこの頃。これは、トシのせいかしら。

でも、なんだか。

ほんとは、ヒリヒリしたいんじゃない? と自問する。

収まりかえってるんじゃないよ。
もっとヒリヒリしようぜ。

しばらくぶりのシカオちゃんは、今度は、開けなくてもいい、もっとヤバいパンドラの箱を開けてくれちゃったのかもしれない。
いやー。
噂の通り、酷い話だわー。
でも、ここまで酷いと逆に、「これ実話では?」と思ってしまう。

演芸場の薄汚れた舞台裏。
売れている芸人は神。
売れてない者、下っぱは絶対服従。
無駄にスマートな支配人。
ありそう。
いや、これあるでしょう、普通に。

現在と過去を行き来しながら、過去の死や暴力が暴かれていく。
現在進行形の暴力は、今このときにも目の前で。

暴力とは、殴ったり、髪の毛掴んで引きずり回したり、そういう直接的なことばかりではない。
相手の柔らかい心を掴みあげて、ぐっちゃぐちゃに踏みつける。

気持ち悪い。なんだこの捻れまくった世界は! 

関西特有のノリツッコミで笑わせるのと、独特の沈黙の間(ま)がなんとも言えず不穏な空気感をにじませる。

自分が笑ってるんだか怒ってるんだかわからなくなる。

2時間超の芝居にもかかわらず、一時も気を抜けない、目が離せない。

バイオレンス、笑い、倒錯と、これでもかと見せつけられて、惨憺たる最後の場面も「8時だョ!全員集合」の前半コントの最後みたいで、なんだかじわーっと笑えてしまうのは何故だ?

でも、ほんとの最後に、ぞ―っとして、哀しくなった。

バイオレンスとやっぱり愛の物語だったのね、と。

明日、千秋楽だそうです。
見応えあります。


茶の間の窓から見える庭には、

母親が「しょぼいしょぼい」という亡くなった父親が植えた桜の木。

葉桜が見える。

煮え切らない娘とせっかちな母親が、ああでもない、こうでもないとしゃべり続ける。

その内容は、娘のお見合いのこと。

 

大正14年に書かれたという岸田國士の戯曲「葉桜」。大正14年と言えば、もう亡くなってしまったわたしの祖母が生まれた頃だ。

平成生まれの娘と昭和生まれの母との札幌での物語として、脚色されてはいるけれど、その思いは古びないものだとしみじみ思った。

 

ぐずぐずと煮え切らず、少し奥手の娘は自分の気持ちと母への思いで、余計煮え切らない。

熊木志保は、ほとんどうつむいていたのではないだろうか。

 

母親は打って変わってゴンゴン攻める。せっかちで、ちょっと自分の世界に入り込みがちな母親を磯貝圭子が早口でまくし立てるセリフとともにクルクルと演じる。

 

大人は子どもが変化してなるのではなく、子どもの自分という芯の周りに、成長するにつれ、大人の部分が層のように重なっていくという話を聞いたことがある。

 

十分に大人の娘の中には、小さい女の子がうずくまり、ちょっと図々しいまでに堂々とした母親の中には、小さな娘を拠り所とする新米の母親と夫と折り合わずに切ない思いをした若い女が同居する。

 

大人の女性と小さな女の子、尻を叩く勢いある母親と女の子を愛おしむお母さんとを行き来する様子が、セリフや動きの緩急で表わされているよう。

最後のシーンは、ほんとに泣けた。

 

以心伝心とか、空気読めとか、そういうのは嫌いなのだけれど、

面と向かって口にせずとも、溢れる思いというものは、やはりあるのだ。

 

まだ、桜の開花には届かない4月の札幌。

一足早い葉桜のもと、娘と母親のふっくらとした物語は心を温めてくれた。

 

明日4月14日まで。

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