大阪府交野市私市
祭神--饒速日命(ニギハヤヒ)

 「磐船(イワフネ)神社」は、
京阪交野線・私市(キサイチ)駅から
国道168号線を約3㎞南下した交野市の
南端、もう少しで京都府生駒市という
府県境近くに鎮座している。
私市駅横のバス停から約10分、
歩けば4~50分か。



※創建由緒
 社頭の由緒書には、
祭神・ニギハヤヒの降臨神話のあとに、
 『当神社は、ニギハヤヒ命が乗ってこられた天磐船(アメノイワフネ)をご神体
として祀り、古来より天孫降臨の聖地
として崇拝されている。

当神社の創祀年代はつまびらかではないが、磐座(イワクラ)信仰という神道最古
の信仰形態と伝承の内容から、
縄文から弥生への過渡期にまで溯ると考えられている。

 物部氏を中心として祭祀がおこなわれていたが、物部本宗の滅亡(587)後、
山岳仏教や住吉信仰などの影響を受けるようになり、平安時代には「北嶺の宿」と
呼ばれ、生駒山系における修験道の
一大行場として変貌を遂げるようになり、云々』
とある。

 天孫降臨といえば、『記紀神話』では
天孫・ニニギ尊が日向の高千穂峰に
天降ったとするが、
物部氏系の古史書・『先代旧事本紀』
(センダイクジホンキ、9世紀前半編纂か
)では、
 『ニニギの兄に当たるニギハヤヒが、
アマテラスの命をうけて天磐船に乗り、
十種の宝物(マジナイの道具)を携えて
河内国の川上の哮ガ峰
(タケル-orイカル-ガミネ、)に天降った。
その後、大和の鳥見(トミ)に移り、
長髄彦(ナガスネヒコ)の娘を后として
御子・ウマシマジをなしたが、
早くに亡くなられた。云々』(大意)
とあり、
その降臨の地・河内国・川上の哮ガ峰が
当神社の辺りとされている。

 ニギハヤヒとは、神武東征に先立って
天降り、難波津の日下で神武軍を悩ませた
ナガスネヒコが奉じていた天神の御子で、
最後には、抵抗するナガスネヒコを誅殺して神武天皇に帰順したとされ、
初期大和朝廷で蘇我氏とともに朝政を二分
していた物部氏の祖とされる
(日本書紀・神武紀)。

 その物部氏が、自家は天皇家に匹敵する
由緒を持つとして編纂したのが
『先代旧事本紀』といわれ、『記紀』とは
異なる物部氏独自の神話伝承を記すところが特徴で、物部氏にかかわる古代の
鎮魂儀礼などを知るうえで貴重な資料とされている。

 『旧事本紀』で天孫ニニギに代わって
降臨したニギハヤヒが、記紀では4代あとの『神武紀≡に出てくるのは時代的に平仄があわないが、そこが神話であろう。
 なお『旧事本紀』は、
『記紀』・『古語拾遺』などを取り混ぜて作られた後世の偽書との説もある。






※ご神体--磐座(イワクラ)
 磐船神社には、カミを祀る本殿はない。
境内のあちこちに座っている巨岩のひとつを『ご神体』として崇め、
その前には拝殿だけが設けられている。

 このような巨岩を『磐座』(イワクラ)
と呼び、この神社の原姿が磐座信仰であったことを示唆するもので、当社がそれだけ古いということを示している。

 ご神体とされる巨岩・磐座は、見方によっては“船の舳先”と見え、拝殿に覆いかぶさるように聳えている。

大阪府全志(1922)には
 「謂ゆる磐船是れにして高さ六尺・
長さ 五尺、其の形船の如し。
即ち岩船神社の神躰にして、
表筒男命・中筒男命・底筒男命・
息長帯姫命を祀る」
とある。

 表筒男命以下四柱を祀るとするのは、
平安後期から本来の祭神・ニギハヤヒが
忘れられ、当社祭神を住吉大神とする
俗信があったことによる。




 イワクラとは、カミが降臨されるという
巨岩(群)で、その地は古くから聖地とされ、そこでカミを迎えて祭祀が繰りかえされることから、その巨岩そのものも聖なるものとして崇拝された。

 磐船神社には高幅ともに数メートルという巨岩が多いが、大きいだけがイワクラの
条件ではない。その地の人々にとって聖地
とされているとか、特に変わった形をしているとか、露頭部は小さくても地下に
根深く拡がっているとか、何か人々に訴える神秘感・威圧感をもつものがイワクラである。

 古代の人々は、それらの聖地にカミを
迎え祭をおこなうことで、四季の巡りの
順調ならんことを祈り、そこからもたらされる豊かな稔りに感謝を捧げてきた。
 そういう意味で、磐座信仰とはカミ信仰
の初期的段階を示すもので、イワクラというカミ祀りの場は後世の神社の初期的形態
といっていい。

 古く、当地の巨岩をカミが依り付く磐座
として崇拝していた人々がいた。
そこにやってきた物部氏系の人々が
船の舳先のような巨岩を見て、
これぞ我等が先祖ニギハヤヒが乗ってきた
“アメノイワフネ”に違いないとして祀ったのが、磐船神社のはじまりであろう。

 ただ、その時期は不明。
物部氏本宗は仏教伝来を契機とする蘇我氏
との勢力争いに敗れ滅亡している(587)
から、それ以前ということも考えられる。





◎アメノイワフネ・ミニチュア
 拝殿の前横に古代の船を模した小さな岩がある(約1m強)。
 自然石を多少加工したもので、
アメノイワフネを模したものであろう。
側面の銘板に
  『ニギハヤヒ命がアメノイワフネに
乗って大空を巡り、この国を見つけて
天降りたもうたとき、
「虚空見つ 日本の国」
(ソラミツ ヤマトノクニ)と
名づけられた』
との書紀の一節が刻まれている(意訳)。
古く、わが国をヤマトと呼んだ
起源伝承である。





※行場岩窟--岩窟巡り
 拝殿の左手一帯、巨岩が幾重にも重なりあった岩場は“岩窟巡りの聖地”となっている。

 由緒書には 
  『当社大岩窟は古来より行場
(ギョウバ)として知られ、云々』
とある、
修験行者(山伏)によって開かれた
修行の場だろうが、常時は閉まっていて、
岩窟巡り希望者は社務所で申込が必要
(有料)。


 岩窟巡りは、累々と重なり合い組み合った巨岩の隙間をくぐり抜けるわけだが、
寺院でよく見かける“胎内くぐり”と同じく、“擬死”と“蘇り”を体験する一種の巡礼
で、窟内に入ることは一旦死んで母の胎内
に戻ることで、狭い隙間を通りぬけて外に出ることは新しい誕生を意味する。
 単なるレクリエーションやアバンチュールではなく、修行のひとつである。


 岩窟内は広狭さまざまで足許に注意しないと危ない。
特に途中にある小さな滝から先は隙間が狭く、且つ足場となる岩面は滑りやすいうえに掴まる鎖などもなく、一人で入るには
注意が必要。




 ご神体磐座の裏手、小川の対岸に
『天岩戸宮』と称する岩場がある。
岩窟巡りの出口に近い。
 巨岩に覆われた岩の窪みに
「皇祖皇宗天神地祇神霊遙拝所」との石碑
を中心に「白龍大神」「岩戸大神」
「登美毘古大神」などの石碑が並んでいる。


 今は忘れられたような聖地だが、
ここが擬死・再生を経験する岩窟の出口近くにあることからみると、
『記紀神話』で、一旦死んで蘇った
アマテラスが隠れたという天の岩屋戸を
これに当てたのかもしれない。
白竜大神とは岩窟に祀られている水神で、
登美毘古大神とはニギハヤヒにからむ
ナガスネヒコか。

 左手すこし離れて
「国民精神総動員 日之本講大会記念」と
の石版がある(昭和11年建立)。
記されている文面からすると、2次大戦突入以前、国家総動員宣言をうけて一致団結しての国威発揮を祈願した大会の記念碑らしいが、天岩戸宮ノ前でおこなわれたのかもしれない。



※四所明神の磐座
 ご神体磐座の裏手、小川の対岸に
4躰の仏を彫りこんだ巨岩がある。
由緒書きにいう
 『四所妙見 大日如来・観音菩薩・
地蔵菩薩・勢至菩薩(住吉四神) 
鎌倉時代』
で、住吉四神の本地仏を示すものであろう。


 本地仏とは、
“神とは仏がわが国の衆生を救済するために仮に姿をかえて現れたものとする
本地垂迹説をうけて定められた仏菩薩だが、本地仏の比定には確たる基準もなく、
同じ神でも違った本地仏を当たる場合もある。

 通常、住吉四神の本地仏は
“薬師如来・阿弥陀如来・大日如来・
聖観音”とされ、当所のそれとは異なる。
当地を行場としていた修験者が彫りこんだものだろうが、その由来は不明。
 ちょっと遠くてよくわからないが、最右のそれは錫杖らしきものを持つから地蔵であろう。





※不動岩
 境内に入って左、拝殿近くの道路寄りに南面して“不動明王”が彫りこまれた磐座がある。由緒書きに
 『不動明王 「天文14年(1543)
12月吉日、観請開白大蔵坊法印清忍」の
銘あり 室町時代』
とあるのがこれであろう。

この右手に“稲荷社”が鎮座し、裏側には
小さな祠が祀られているが、祭神・由緒
など不明。※伴林光平先生顕彰磐座

 境内に入ってすぐ右手・道路際に
2mほどの磐座がある。
傍らに苔生した古い石灯籠が立ち、
岩の割れ目から樹木が伸びている。
聖なる磐座と聖樹の共存である。

 境内に回り込んだ岩肌に2首の和歌が
刻まれている。
傍らの顕彰碑(昭和62年建立)によれば、
『今この処の岩窪に伴林光平(トモバヤシミツヒラ)先生の二首の和歌を録し奉る。云々』とある。

 伴林光平(1813~64)とは
幕末の国学者・歌人で河内の人。
恥じろ仏僧だったが勤王思想に共鳴して
還俗、天誅組に加わるが破れて捕らえられ
斬罪に処せられた勤王の志士。
岩肌に刻まれた和歌の一首は、処刑前年に
獄中で詠んだ歌で、
顕彰碑には
『その日、その折りの先生の
悲懐を偲び、誰か万斛(バンコク)の
涙なきを得ん』とある。
明治24年従四位追贈。





※磐船神社から京阪私市の間
 磐船神社から京阪交野線・私市駅までの間に、当社にからむ史跡が幾つかある。






◎哮ガ峰
(タケルガミネ、イカルガミネともいう)

 先学の説では、哮ガ峯として
 ①江戸時代からの俗説である
生駒山の最高峰(H=642m)とする説、

 ②江戸時代に書かれた『河内志』にいう
讃良郡西田原
(現四条畷市上田原、天野川
の上流に当たる)の
磐船山(別名:饒速日山)

とする説があるという。
磐座神社に饒速日を祀る以上、後者の方が似つかわしいか。


 これに対して、磐船神社から約1㎞北上
した天野川西側、府営“ほしだ園地”の一画に『哮ガ峰』と呼ばれる岩山が聳えている。
市販の地図に載っているだけで関連する
伝承などもなく、一つのロマンだろうが、
それに相応しいような切りたった屏風岩が
直立している。


 当岩場前の小広場には“ビトンの小屋”との休憩所があり、岩場の左にはロッククライミング用の人工岩場が造られている。
これを西に少し行ったところが吊り橋
・“星のブランコ”。



◎お旅所跡
 磐船神社から約2㎞ほど上がった
“しぐれの里バス停”の東側に古い石塔が
2基立っている。

 横の由来書によれば、
 『磐船神社のご祭礼になると、
私市の村では磐船明神の神霊を神輿に乗せて磐船街道をくだり、
村にお迎えし若宮神社にて祭礼を催すとともに安泰と繁栄を祈願して私市村内を一巡した。
その御幸の行き帰りに、神さまと
人々が休憩するためにここ“しぐれの里”に
お旅所が建てられた。
 その後の交通事情などで御幸の神事は
廃れ、お旅所も現存せず、二基の灯籠のみが往年の神事を偲ばせている』
とある。




◎若宮神社
  京阪・私市駅の西約200m、
住宅に囲まれて『若宮神社』がある。
隣は私市会館。

 当社略記によれば、
 『当社は私市の氏神で“住吉四神”を祀る。元々は産土の神(ニギハヤヒ)を
祀ったと考えられるが、
当地方の総本社・磐船神社の
ニギハヤヒ信仰と住吉信仰が混同し、
いつのまにか住吉四神が祭神と誤って伝承
したのであろう。
 約270年前、(磐船神社宮座の揉め事が解決せず)各村々は磐船神社の分霊を神輿
に乗せて持ち帰り祭祀したが、
私市には古くから天田神社(私市1丁目)
があったため、若宮神社と称したのであろう』
とある。
上記しぐれの里のお旅所由来からみて、
磐船神社のお旅所・行宮だったと思われる   なお天野川流域には、当社だけでなく住吉四神を祀る神社が多い。

 『交野市史』によれば、
  平安時代に入って、天皇をはじめとする平安貴族が狩猟・行楽のために
枚方・交野の地を訪れるようになり、
磐船の祭神・ニギハヤヒがアメノイワフネ
に乗ってやってきたとの伝承を聞いて、
ニギハヤヒが当地方の開拓者・
物部氏の祖神という由来があるにもかかわらず、ただ船に乗ってきたというだけで
海の神・航海の神である住吉四神と同体視
し、これを和歌の神として崇拝し、その前で歌合わせなどをおこなったという。

 これが本来はニギハヤヒを祀るはずの
当地に住吉四神が多い理由だという。







◎「梅の木」伝承地

 磐船神社の北約1㎞弱、
“梅の木バス停”東側の藪の中に八幡宮と
刻した石灯籠が1基立っている。

 横の説明によれば、
 『古代神功皇后が三韓征伐にお立ちになる前、祖父カニメイカヅチ王に別れを告げるため天王(京田辺市付近)にお出でになり、
暇乞いをされたのち磐船谷に沿って
大和に行かれた。
その途中、磐船明神の前あたりの路傍で
兵を止め休息され食事をとられた。
その食後、皇后は梅干しの種を棄てられたが、その種が芽吹いて立派に生長した』
とあり、磐船神社とは直接の関係はない。

 京田辺市・天王には、
神功皇后の祖父・カニメイカヅチを祀る
朱智神社があり、皇后の出身氏族・息長氏
の根拠地のひとつともいわれ、
皇后にかかわる伝承が多く残っている。
これもそのひとつであろう。






 江戸時代の観光ガイドブック・
『河内名所図会』(享和元年1801刊、
平成2年復刊)は、次のように記している。


 石船巖(イハフネイハ)  
私市村より東 廿町斗にあり。
 此の地、左右、峨々たる青山にして、
峡中に大巖あり。
高さ弐丈余、長さ五尺許(バカリ)。
渓水(タニミヅ)、石下を通じて、水音つねにかまびすしく、此の辺、和州の通路にして、岩船越といふ。(中略)

 石船の傍に、仏像四躯、梵字を彫る。
又、玉垣あり。土人、此の巌を住吉明神と
称して、毎歳、六月晦日、村民ここに
聚(アツマ)りて、禊事(ケイジ)を
此の神座石(シンザセキ)にて修す
(巌の前で禊ぎをする、か)。

むかしは和州南田原村石船明神の御輿、
ここに幸す。故に石船岩といふ。
此の祭式、今は廃し侍べる。(以下略)

 〔河内志〕に、
此の石船山を河上哮峰と称ずるは、
謬りならん。
〔旧事記〕の地理と違(タガ)ふ。

 中央に大きな岩船岩(今の神体石)、
傍らに四躰明神岩が描かれ、
その前で旅人が驚き、上部に奈良に抜ける
旧磐船街道と、そこを行く旅人を描いているが、岩船岩の前に拝殿はない。

 案内に、ニギハヤヒ伝承がなく、
この当時は住吉大神の霊所として知られていたことを示す。

 なお、六月晦日の禊ぎとは、
所謂“夏越の祓い(ナゴシのハライ)”を
指す習俗であろう。 


本足跡




































『ニギハヤヒ命の天孫降臨』




『先代旧事本記』の語るニニギ命の兄、
ニギハヤヒ命の天孫降臨は以下のようなものです。

天照太神が仰せになった。
「豊葦原の千秋長五百秋長の瑞穂の国は、
わが御子の正哉吾勝勝速日天押穂耳尊
(オシホミミ尊)
の治めるべき国である」と

仰せになり命じられて、
天から降そうとなされた。

ときにオシホミミ尊は、
高皇産霊尊の子の思兼神の妹の
万幡豊秋津師姫栲幡千千姫命を妃として、
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊
(ニギハヤヒ尊)を
お生みになられた。

それでオシホミミ尊は、
天照太神に奏して申しあげた。
「私がまさに天降ろうと装いをしている間に生まれた子がいます。
この子を降すべきです。」

天照太神はこれを許された。

天神の御祖神は詔して、
天孫の璽である瑞宝十種を授けた。

瀛都鏡、辺都鏡、八握剣、
生玉、死反の玉、足玉、道反の玉、
蛇の比礼、蜂の比礼、品物の比礼、

高皇産霊尊が仰せになった。
「もし葦原中国において神を防いで待ち受け、戦う敵がいれば、方策をたて計略をもうけ平定せよ」
そして、三十二人に命じて、皆防御の人として天降しお仕えさせた。

天香語山命、 尾張連らの祖。
天鈿売命、 猿女君らの祖。
天太玉命、 忌部首らの祖。
天児屋命、 中臣連らの祖。
天糠戸命、 鏡作連らの祖。
天明玉命、 玉作連らの祖。
天牟良雲命、 度会神主らの祖。
八意思兼神の子・表春命、 
信乃阿智祝部らの祖。
その他、24人の各氏族の祖。

また、五部の人が副い従って天降り、
お仕えした。

五部の造が供領となり、
天物部を率いて天降りお仕えした。

天物部ら二十五部の人が、同じく兵杖を
帯びて天降り、お仕えした。

船長が同じく、梶をとる人たちを率いて、
天降りお仕えした。(各氏族の名称は略)

饒速日尊は天神の御祖神のご命令で
天磐船に乗り、
河内国の河上の哮峯に天降られた。

更に大倭国の鳥見の白庭山にお遷りになった。
天磐船に乗り、大虚空(おおぞら)を
翔り、この地を廻り見て天降られた。

即ち、「虚空見つ大和の国」と云われるのは、このことである。


饒速日尊は長髓彦の妹の御炊屋姫を娶って妃とした。御炊屋姫は妊娠した。
しかし、まだ子が生まれないうちに
饒速日尊は亡くなられた。



大阪府交野市の「天磐船神社」と
御神体の“天磐船”。。

天磐船

哮峯(イカルガのみね)とは生駒山山系に
在る一つの峰のことだと思われます。
【虚空見つ大和の国】とはこのような
風景なのでしょう。


鳥見の白庭山
(生駒市白庭台~奈良市登美ヶ丘)は
生駒山の奈良県側に有ります。
斑鳩寺(法隆寺)のある奈良県斑鳩町の
地も近い。





ニギハヤヒミコトとニニギノミコト、
それぞれの天孫降臨神話にはかなり被っている部分が見られます。
これは明らかにどちらかの話が先に有って、もう一方はその話を元に作られた話だからだと思われます。

嘗て『先代旧事本記』が偽書とされていた
時代には、『古事記』『日本書紀』にある
ニニギ命の天孫降臨神話こそが本物の
天孫降臨神話であり、
『先代旧事本記』の記すニギハヤヒ尊の
天孫降臨神話はニニギ命の天孫降臨神話を基にして作られた偽物の神話だとされてきました。

この二つの天孫降臨神話が最も大きく異なる部分は、
ニニギ命が日向国高千穂の
櫛布留(クシフル)峰に降臨しているのに対し、
ニギハヤヒ尊は河内国の
河上の哮(イカルガ)の峯に降臨していることです。

ところが『古事記』『日本書紀』を見ますと、九州北部の宗像国以北から中国四国、
及び近畿から中部東海地方にかけての広大
な地域に拡がる芦原中国を平定した
大国主命に対し、
高天原=北九州の奴国以南に在った倭
国の神々(=施政者:私が考えるに倭国を
構成する各小国の王達)が
倭国軍(大将の建御雷神以下の軍隊)を
天鳥船に乗せて、当時の芦原中国の首都
出雲国に送り、大国主命軍を責めて勝ち、
国譲りさせた後、攻め取った芦原中国の
統治者として天照大神が天孫を降臨させたのですから、
天孫降臨の地としては芦原中国の中に在る
河内国の方が自然な話の流れとなります。

それに対しニニギ命の天孫降臨の地は、
北九州の倭国=高天原から見て、芦原中国
とは全くの反対方向に在る日向国高千穂と
なっているので、それ以前の話とまるで
辻褄が合いません。

多分『古事記』『日本書紀』を読まれた方は誰もがこの部分に多大なる違和感を
お感じのことでしょう。

このことからも私は、本来の天孫降臨とは
『先代旧事本記』の記す、
ニギハヤヒ尊の河内国への天孫降臨だったものと考えています。

ニギハヤヒ尊は河内国の
河上の哮(イカルガ)の峯に降臨後、
大倭国の鳥見(登美)の白庭山
(生駒市白庭台~奈良市登美ヶ丘)に
お遷りになったとされますが、
この地は芦原中国を統治するには極めて
都合のよい芦原中国の中心地であります。

私は大国主命の国譲りに前後して、
芦原中国の首都は出雲国からこの大倭国の
登美の地に移されたものと考えています。

そのことは、大国主命が芦原中国を統一し終わり、日本海を眺めていると、
海の彼方から大物主神が光り輝きながら飛んできて、
「私はお前の幸魂、奇魂である。
お前が芦原中国を平定できたのはすべて
私のおかげである。
この私を大和国の御諸山(三輪山)に祀れ」と語ったとされる一節にも示されています。

更には、神倭磐余彦命が東征したとき、
この登美の地でニギハヤヒ尊
(実はウマシマジ命)と遭遇する話にも
合致します。

それに対し、ニニギ命の日向国高千穂への
天孫降臨は、北九州の倭国=高天原と
長年抗争していた南九州の狗奴国=
熊襲・隼人連合の討伐のために、
倭国が行ったもう一つの軍事行動だったものと思われます。



本足跡




























天磐樟船
(アメノイワクスブネ)