明智荘
現在、明智という地名はないがかつては現在の可児市北東部から御嵩町西部にかけて「明智荘」という荘園が存在していた。
明智光秀は土岐氏流明智氏の出身だとされているが、その名字の由来となった地が明智荘であると考えられる。
【美濃国諸旧記】では、明智荘は明智氏代々の所領であったとしている。
ただし、現在、瀬田地区の狭い地域に寺院が集中していることや、字名に「東屋敷」「西屋敷」「大屋敷」などの名が残ることから、有力な武士層の存在をうかがわせるという説もある。
ここに来るまで、明智は訪問済みだと思っていたけど…
明智は明智でも〜
恵那の明知城を登城したのでありまして
えっらい勘違いをしてました
来てよかったわぁ
駐車場で明智荘の管理代表のおじさまが、巡り方を説明してくださり
頂いたその地図を握りしめ、いざっ
大手門の木戸があったらしいのだけれど
シロアリにやられて、撤去
この6月に新たに設置するそうです
たらったらと進みます
道に沿って細い堀みたいのが、気になるわぁ
ほぉ〜と、休み休み
そんなにキツくはない上りだけどね
休み休み
上りきった、かな
ぷっ
では中の丸に行ってみよう
奥まで進んで
先ほどの道を確認
段々があるわねぇ
よくわからなかったので、次のステージへ
七ツ塚
『明智城と明智光秀』によれば、本丸南南西の尾根の頂上に戦前までは東西に一線をなして、七ツ塚が残っていたとされる。
これは現在本丸とされる場所の南側にあたる場所であり、7基の盛土が残されている。
一説には1556年の明智城での合戦の際に戦死した明智方の将7人を葬ったと言われている。
お、あの後ろ姿は
明智城
明智光秀が生まれ、落城するまでの約30年間を過ごしたと伝わる。
『美濃国諸旧記』によると、可児郡の明智城は、土岐頼兼が康永元年(1342年)に築き、明智氏代々の居城となったと書かれている。
また、弘治2年(1556年)、明智光秀の叔父にあたる光安が城主である時、稲葉山城主斎藤義龍の攻撃を受けて落城したと言われている。
光秀くんじゃ〜
凛々しいじゃない
あの、坂本城では…
これ、なのに
いや、個人の好みでものを言っちゃ〜いかんね
ちょうど本丸にいた時の空がさ
好みでさ
バチバチ撮っちゃったな
大河ブームの時はすごい人だったのかな
そう思って時期ずらしてますけどね
本丸、城碑だらけ
おじさんが教えてくれた道を確認し
本丸ぐるり
大河の経済効果って、すごいんでしょうね
西出丸
搦手方面(閉鎖中)
それでは
おじさんおすすめの、十兵衛坂(新道)へ
下った先は水の手
夏だったら、嫌なエリア
キョロキョロすると
あった
5本あると言ってたけど、確認できない
おじさんがきれいにしてくれた2本のみ
先に進む
西大手曲輪に立ち寄る
案内板があるから、安心して潜入できる
この先に
乾曲輪
六親眷族幽魂塔
六親眷族とは、仏教における用語で、一族や親戚すべてを指す言葉である。
施餓鬼供養などで使われる用語なので、一族や類縁の者を何らかの目的で供養した石造物であるといえる。
多々ある案内板、ありがとう
気持ちよく下山
搦手門があったみたい
さっきの本丸から、どぉ繋がっているのかな
とちょっと悩みながら
おしまい
住宅地にも食い違いが残っているのか
ぷら散歩
明智氏の館跡、なんですかねぇ
おじさんにお礼を言おうと思ったら
駐車場はもう、私の車がポツンと1台であった