帰国して、1日が経った。
時差ボケがひどいみたいで、昨日の夜は布団に入ったものの一睡もできなかった。
眠るのを諦めて起き上がり、朝から今度一緒にイベントを創るメンバーとミーティング、からのランチ。
ボーッとして働かない頭にやきもきしながらも、みんなと久しぶりに会えたことが嬉しくて、カレーもおいしくて、幸せな気分になった。
そして今、疲れが出たのか少し風邪気味。そんな中、こうしてキーボードを叩いている。



今月の14日から昨日27日まで、仲間とその師匠的存在の方が企画した「グローバルリテラシー実践編」というプログラムに参加して、フランスとスペインに行ってきた。


パリとマドリードのあらゆるところを回った。

ノートルダム寺院、サクレ・クール寺院(モンマルトル)、凱旋門、シャンゼリゼ通り、エッフェル塔、モン・サン・ミッシェル、オルセー美術館、サント・シャペル、ルーブル美術館、オランジュリー美術館、王宮、ティッセン・ボルミネッサ美術館、国立ソフィア王妃芸術センター、プラド美術館、サン・ミゲル市場、、、、、、。
程度の差こそあれど、それぞれの場所から刺激をもらった。


憧れの地・ヨーロッパ。
建物は、すごくすごくお洒落で、街を歩いているだけで映画の世界に迷い込んだような気分になった。


空港に着いていきなり、「ここからは各自で宿へ向かってください。」と言われた。
この旅は、ツアー旅行では無い。「次回は一人で旅ができるような力を付けること」を狙いとしているだけあって、こんな場面はザラだし、基本的にどこへ行こうと自由。
最初はさすがに心細さを感じながらも、地図と路線図を見ながら地下鉄を乗り継ぎ宿を探した。
意外とスムーズに見つけることができ、小さな小さな自信が付いた。
4年前、香川の田舎から関西に出てきてたくさん電車に乗った甲斐があったなー、なんて思ったり。


ヨーロッパの街というと、美しいイメージがあるかもしれない。
けれど、そんなことはない。
建築物は立派でも、地下鉄の構内や道端にはたくさんのゴミが落ちている。
物乞いをする人もたくさんいる。
スリもよく発生する。
私も2日目に地下鉄の車内でスリに遭いそうになった。
もう少しで盗られる、というところで気付いて被害は防いだけれど。
ショックだったのは、スリをはたらこうとした犯人が小学生くらいの少女だったことだった。


接客の態度も、全く違う。日本のように懇切丁寧な接客はまず無い。
特にフランスでは、お店に入っても挨拶を返してくれたらいい方であり、無言のまま代金と商品の交換をすることもたびたびあった。
ただ、パリでもマドリードでも、宿泊したホステルの受付の人たちは優しくて陽気で素敵な方ばかりだった。流れているBGMのリズムに合わせて体を揺らし、歌を口ずさみながら、私たちに応対してくれる。
すごく楽しそうに働いているそんな彼らを見ているとこっちまで笑顔になった。


向こうには、アーティストもたくさん居た。
アコーディオンを持った老人や、ジャズバンドが地下鉄の車内で演奏することは日常茶飯事。
街中を歩いていても様々な楽器を掻きならす人たちがいた。
クリスマスシーズンだから余計にそうなのかもしれないけれど、どこに行っても生演奏が聴こえてくるような環境。しかも、みんなすごく上手い。


パフォーマーもたくさん観た。
サッカーボールを足で華麗に操りながら灯台に上り高所で技を魅せる人、全身をシルバーに塗りたくり一点から一歩も動かない人、などなど。
日本では、まず見られないような光景だった。それが当たり前に受け入れられている場所だった。


もう一つ、感じたことは、向こうの人はすごく家族や恋人との時間を大切にしているということ。そしてオープンに愛を伝えていること。
お父さんもお母さんも子どもたちもみんなあったかい笑顔をしてて、幸せそうで眩しかった。手を繋いで寄り添って歩いている老夫婦もたくさん居た。見てるだけで心がじんわりしてなんだか泣きそうになる場面もよくあった。
もちろん日本人にもそういった時間を大切にしている人はたくさんいると思う。
それに、日本人特有のコミュニケーションや愛情表現もあるし、それも誇れるものだと思う。
けれど、そういう前提というか事実を踏まえても、やっぱり向こうのその光景にはトータルで見て勝てない気がした。
まあ、これは個人で異なるものだと思うけれど、とにかく彼らは自分の愛する人に対して惜しみなく時間を使っていた。


そんなこんなで、私は憧れの地で、初めてのものや日本と異なるものにもたくさん触れた。
その上で、感じたこと。。。それはちょうど旅の中日にあたる7日目くらいから、ハッキリとハッキリと、シンプルで真新しくもないひとつのものに集約されていった。


それは、自分が大切にしたいのは『日常』だということ。
そして、『何気ない日常の幸せ』だということ。



大学1年の時に出逢った、今でもすごく尊敬してやまない先輩が「日常の勝利」というワークを教えてくれた。
そのワークは「24時間以内にあったうれしかった出来事を話す(書き出す)」というもの。その先輩は、「プロジェクトに追われ忙しくてやってる意味がわからなくなって目の前が真っ暗になった時期にこのワークを始めたことで、自分が今日生きた意味を見出すことができたし、これをし始めてから、毎日が少しずつ楽しくなって、明日が来ることも楽しみになったんだ。」そんな風に話してくれた。
私はその話を聴いて「めっちゃ素敵やなあ。」と思い、自分も意識してそれを探すようになった。そしてそのうちそれは、“1mm happiness”というコトバに変わって私の中に宿った。


退屈な日も、上手くいかない日も、涙が止まらない日もある。
生きてたらそんなことも多い。
そんなときに、ただ悲観をせず、かといって現実逃避をして遠い未来に手に入るかもしれない大きな幸せに期待を託すのではなく、日常の小さなことに目を向けるだけで、少しでも自分の心の雲が晴れるんじゃないかって。


それは、久しぶりの友達からメールが来たことかもしれない。
お昼ごはんのオムライスが美味しかったことかもしれない。
ふと顔を上げると、空が美しい水色をしていることかもしれない。


それらは微力だけど、無力ではない。
そして、1mmだけかもしれないけれど、私の世界をシフトさせてくれるかもしれない。

そんなことを思うようになって、ブログのタイトルもこれにしたんだっけ。



説明が長くなってしまったけど、今回欧州に行って感じたことは、結局シンプルなそれで、私の原点だった。
原点を、もう一度、心の水底から思い出した。


そう思った途端、日常がすごく恋しくなった。
朝5時起きの生活も、変わり映えのしない景色も、楽しいことよりしんどいことが多いんじゃないかと思う坂道のような人生も、孤独を感じる時間さえも。



心は止まらない。
カフェでノートとペンを取り出し、気が付いたら好きなものを書きなぐっていた。


スタバ、美術館、書くこと、歌うこと、伝えること、インタビューすること、中崎町、京都、お寺、犬、隅っこ、地上の乗り物、ゲルインクボールペン、物語、1対1での語り、考えること、安藤裕子、中央公会堂、リュックサック、雑誌、シャガール、朝の読書、ひとり行動、友達、支えてくれる人たち、地元の海、偶然、理解の出来ないもの、岡本太郎、アンティーク、自然体、、、、、、。


とてもじゃないけど書ききれないほどに、止め処なくそれらは浮かんできた。


書き出していて、思った。


「これ、全部自分の周りにあるやん。私、満たされてる。」


そう、それらのほとんどは、日常的に触れている/触れられる距離にあるモノだった。
私は、幸せ者だと改めて気付いた。
私がへこんだときは、きっとこのうち(ここには書いて無いものかもしれない。ほんとにいっぱいあるから。)のどれかが私にパワーをくれるんだ。


変な例えかもしれないけれど、

宝くじで1億円当てるよりも、
500円玉貯金箱を買って毎日1枚ずつ入れてって、
いっぱいになったらまた新しい貯金箱を用意してってのを繰り返して、
5年くらい経ったときに「うわー!100万円も貯まってるし!」なんてふとした瞬間に気づく方がなんだか自分らしいな、って思うんよなー。



私は日常が好きだ。
一見退屈そうで変わり映えのしないそいつが好きだ。
何の変哲もない、一見のっぺらぼうなそいつに毎日色を塗り重ねていくことで、未来が作れるんだ。自分が変身することも、一回りおっきくなることもできるんだ。


遠くの方に光輝く場所があったとして、
きっとそこにジャンプして到達できることなんてなくて、
いや、もしかしたらそんなことができる人もいるのかもしれないけれど、
少なくとも私は、遠くを見ていた視線を下に落として、
埃まみれかもしれないし数も数え切れないくらい果てしないかもしれないけれど、
足元にある階段を上ってくほうが好きだし、
きっとそうやってしか生きていけない人間なんだ。


そう、その階段は、『日常、今日、今。』




海を渡り、風土や雰囲気の全く違うところに来ても、思うことや考えることは同じだった。


2012冬・欧州への旅は、日常の大切さをもう一度私に教えてくれるものになった。