2 : 日弥呼の時代の朝鮮半島

 

日弥呼の時代

すなわち3世紀の朝鮮半島南部には、後の百済、新羅、任那

の位置に、馬韓、辰韓、弁韓があったと想定するのが

学界の通説である。

だから、学校の教科書の類には、以下のような図が掲載

されている。

ところが、この時代について書かれた支那の史書は

馬韓、辰韓、弁韓、倭の位置をこうした通説とは異なる

ように記述している。

例えば『三国志』魏書東夷伝では、韓について、次のように

書かれている。

韓は帯方郡の南に在り、東西は海で尽き

南は倭と接し地積は四千里ばかりである。

韓には三つの種類があり

一つ目は馬韓、二つ目は辰韓、三つ目は弁韓と

いう。

韓、すなわち

馬韓、辰韓、弁韓は、東と西で海に面しているが

南では海に面せず、倭と接している

つまり、朝鮮半島の南岸は倭の領土であったということである

 

『三国志』魏書東夷伝によると、朝鮮半島の南岸にあった

とされる倭の国の名は、「狗邪韓国」である。

帯方郡より倭に至るには、海岸に沿って水行し

韓国を経て、南へ行ったり、東へ行ったりして

その北岸の狗邪韓国に到ること七千余里である。

初めて一海を渡り、千余里で対馬国に至る。

狗邪韓国の前に付いている「その(其)」

       倭を指していると解釈しなければならない。

 

もし韓国ならば

「南岸」となるはずだ。だから、「その北岸」は、倭の北に

ある岸という意味である。

 

『後漢書』では、「その西北、拘邪韓國で界する」となって

いるが、支那語の「界」は、「境界」という意味だから

拘邪韓國は、倭の西北における境界となる国として

位置付けられている。

 

これだけなら

狗邪韓国が倭の一部かどうかははっきりしないが

『三国志』魏書東夷伝によると、倭には邪馬台国をはじめ

として30国あり、狗邪韓国を倭の一国として数えないと

29国になってしまう。

 

日本列島には

狗奴国があり、これを30番目の国とする解釈もあるが

狗奴国は女王国連合には属していないし

使者や通訳が通ってくる所30国」という条件を満たしていない。

 

『三国志』魏書東夷伝には弁韓の中に狗邪国があるこ

とを根拠に、狗邪韓国は弁韓の中の一国だとする解釈も

あるが、同じ東夷伝の中で、なぜ同じ国を別の名称で呼ぶ

必要があったのだろうか。

 

そもそも

倭が朝鮮半島南岸に領土を持たないのなら

東西は海で尽き、南は倭と接し」の記述に反するのだから

この解釈は無理である。

 

倭の一部であるにもかかわらず、狗邪韓国に関して詳しい

説明がないのは不審だと思う人もいるかもしれないが

倭を構成する30国のうち、たんに国名を挙げるという

以上の記述がなされているのは、たったの8国だけであり

狗邪韓国だけが特別扱いされているわけではない。

 

おそらく

支那の使者は、狗邪韓国に上陸せずに、帯方郡から

対馬まで航行したため、記載するほどの詳しい情報が

なかったのだろう。

 

ところで、多くの人は、馬韓、辰韓、弁韓が、そのまま

百済、新羅、任那になったと思い込んでいるが

この通説は検討を要する。

 

まず、馬韓、辰韓、弁韓、倭の位置関係であるが

『後漢書』は、次のように定めている。

馬韓は半島の西に在り、54国を有し、その北は

楽浪と、南は倭と接する。辰韓は東に在り

十二国を有し、その北は濊貊と接する。

弁辰は辰韓の南に在り、また十二国を有し

その南はまた倭と接する。

任那は

百済と新羅の南にあったが、弁韓は、辰韓の南に位置する

ものの、馬韓の南には存在せず馬韓と弁韓の南にある

のは、倭である

 

だから

百済と馬韓の版図はほぼ重なるものの、辰韓と弁韓は

二つ合わせて新羅の位置にあり

これに対して倭は、任那の位置にあるということになる。

 

よって

馬韓、辰韓、弁韓、倭(狗邪韓国)の位置関係は、以下の

図のようになる。

image

 

この時代、馬韓、辰韓、弁韓、狗邪韓という四つの

があったが、狗邪韓は、倭の下位構成国になったために

邪馬台国連合を構成する他の三十の国々と同様に

狗邪韓国というように「国」が付けられたのだろう。

狗邪(くや)は、後に、加羅(から)あるいは伽耶(かや)と

呼ばれるようになる。

 

この推測は、人口規模からも裏付けられる。

『三国志』魏書東夷伝によれば、馬韓が10万余戸である

のに対して、辰韓と弁韓は、合計でも4-5万戸の規模しかない。

 

朝鮮半島は東部が山がちだから、辰韓と弁韓の国土の

広さが、人口規模ほど小さくはなかったと思われるが

両者の人口規模は、馬韓の半分程度しかなかったと考えて

大過ない。

 

また、倭では、邪馬台国(甘木を中心とした筑紫平野北部)

だけで7万余戸、投馬国(現在の三潴を中心とした筑紫平野南部)だけで5万余戸、奴国(福岡市)だけで2万余戸である。

 

馬韓、辰韓、弁韓の人口規模は

上記の倭の三国の人口規模と同程度で、半島南部全体を

覆うには、小さすぎる。

 

『梁書』や『北史』など、唐の時代に書かれた支那の史書では

新羅は、辰韓の「遠い子孫(苗裔)」とされているし

『三国史記』の新羅本紀も、辰韓の歴史を新羅の歴史として

扱っている。

 

他方で、新羅本紀は、早い時期に「弁韓(卞韓)は国を

挙げて辰韓に服従した」という記事を載せている。

 

また

『晋書』も、弁韓に関して「すべて辰韓に属している」と

述べており、辰韓がそのまま新羅になったのではなくて

辰韓が弁韓を併合した後に、新羅となったことを裏付けている。

 

『後漢書』は

辰韓と弁韓の言語は異なるとしていたが、『三国志』では

相似していると書かれている。

 

弁韓は

辰韓に併合されたことで、言語の面でも同化したのだろう。

 

『三国史記』の新羅本紀によると

弁韓(卞韓)は国を挙げて辰韓に服従した」後も

新羅(辰韓)が伽耶と攻防を繰り返した。

 

新羅の第5代の王

婆娑尼師今も、新羅が

西は百済と隣接し、南は加耶に接している」と言っている。

 

伽耶とは、加羅に対する新羅側の呼称である。

 

このことは

弁韓と伽耶(加羅)が別であることを示している。

 

弁韓の中の一国

狗邪が狗邪韓国と同一で、後に伽耶(加羅)になったとする

通説は成り立たない。

 

もちろん、名前が同じなのは、偶然ではなくて、狗邪は

もともと狗邪韓国の一部から弁韓の一部にまたがる地域の

名称だったのだろう。

 

朝鮮半島においては

特定地点の名称にすぎなかったカラを、倭人は、海の向こう

の土地の総称として使った。

 

その結果

倭人は、朝鮮半島南岸一帯をカラと呼び、後の時代には

日本人は、朝鮮自体も韓(カラ)と呼び、さらには

支那までも唐(カラ)と呼ぶようになった。

 

要するに、日本人は、“カラ=外国”というところまで

意味を拡張してしまったのである。

 

それは「ヤマト」が日本全体を指すまでに外延を広げて

いったのと似た現象である。

 

狗邪韓国が倭の支配下にあったとしたならば、それはいつ

の時代からなのか。

 

1世紀に成立した『漢書』地理志に朝鮮と日本に関する

短い記述があるが、そこには、倭が朝鮮半島に影響力を

持っていたことを窺わせる記述はない。

 

だから、日弥呼の時代に、女王国連合が朝鮮半島に

まで及んだのではないかと考えられる。

 

そうすると

『日本書紀』が日弥呼に比定する神功皇后朝鮮半島を

征討したという話が現実味を帯びてくる。

神功皇后 に対する画像結果

日弥呼は

本来『日本書紀』におけるアマテラスに相当する人物だが

『日本書紀』の編集者が、支那に対抗して、皇祖神をあまり

にも過去へと遠く遡らせた結果、『三国志』との間に不整合が

生じ、『三国志』との整合性を保つために、3世紀に神功皇后

という日弥呼のもう一つの分身を作り出さなければ

ならなくなった。

 

そして、『日本書紀』の編集者は、この神功皇后による

三韓征伐の話を挿入するために、仲哀天皇(タラシ「ナカツ」ヒコ)という架空の「中継的」天皇を立てて、畿内から九州へと

遷都させ、邪馬台国の時代にまで話をタイム・トリップさせている。

 

そして、神功皇后は、神託を得て、狗奴国に相当する熊襲を

征討した後、朝鮮半島に出征する。

 

神功皇后が主として征伐したのは

新羅だが、この新羅征伐の話は、白村江の戦で新羅に

敗れた日本が、せめて史書の中でだけでも一矢報いたい

という願望のもとに捏造した、自慰史観の産物であると

いう見解がこれまで主流であった。

 

たしかに、当時新羅という国号はなかったし、その原形と

なった辰韓も、当時倭と国境を接しない小国だったから

新羅を征伐し、その後、百済と高句麗が臣従したという

三韓征伐の話は、次に取り上げる倭の五王の時代の話と

混同されている。

 

日弥呼と神功皇后を結び付ける手がかりは

『三国史記』にもある。

 

新羅本紀の阿達羅尼師今二十年(173年)の記事に

倭の女王、日弥呼の使者が来朝した」とあり、続く

沾解尼師今三年(249年)の記事に

倭人が一等官の于老を殺した」という記事があるが

于老をめぐるエピソードとそっくりの話が

『日本書紀』神功皇后前紀にある。

 

なお、『三国史記』の新羅本紀には、日弥呼の時代に

倭や伽耶と激しい戦闘があったことが記されているが

百済本紀には、そうした記述はなく397年に倭と国交を

結んで以来、友好的な関係にあったことが書かれている。

 

これは

新羅本紀が、その前身である辰韓や弁韓の時代の歴史も

新羅の歴史として取り扱っているのに対して、百済本紀は

百済の歴史と馬韓の歴史を区別し、前者しか扱っていない

からである。

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