1915年 塩田剛三 誕生(東京府四谷区)
1917年 木村政彦 誕生(熊本県飽田郡)
1922年 崔 永宜(大山倍達) 誕生(朝鮮・全羅北道)
1924年 金 信洛 (力道山) 誕生(朝鮮・咸鏡南道)
1935年 木村政彦 拓殖大学予科進学
1938年 馬場正平 誕生(新潟県三条市)
1939年 第二次世界大戦開戦
1940年 金 信洛 (力道山) 二所の関部屋入門
1945年 第二次世界大戦終結
1950~53年 朝鮮戦争
1950年 力道山 大相撲廃業
1957年 板垣恵介 誕生(北海道釧路市)
立ち合うという事の覚悟
「おい板垣さん、その顔、これやったなぁ?」
漫画家になる前の板垣は雑誌の編集者を生業としており、小金井に門外不出といわれる伝説の中国拳法・太氣拳の道場が出来たと聞き取材を申し込んている。
最初は、どの雑誌の取材も受け付けてないからと、にべも無く断られていたのだが、板垣の少林寺拳法2段、ボクシング国体出場という経歴に興味を持った電話口の男は、こう言って取材を了承した。
「稽古なんて見たって分からないでしょ? 立ち会いましょう」
「アッハッハッハ、太氣拳・・・澤井健一、おお知ってる、知ってる、澤井ね。あの拳法の道場でやられたのか、ハハハハハ」
塩田がその詳細を聞き、ひとしきり爆笑してその場を立ち去った後、お付きの人がことづけを持って帰って来た。
「もう、二度とやるな。たまたまそれぐらいで終わったと思いな。道場で立ち会うという事は、腕を折られても文句を言えないし、下手したら殺されるかもしれない行為なんだ。それぐらいの傷で終わったのは、運がよかったんだ。だから、絶対にもうそういう遊び半分な取材だなんていう、軽い気持ちで立ち会うなんて事は、二度とやるな」
塩田は笑いながら、もし自分の所にそんな奴が来たらって考えてたんだろう。
俺のところに来たら、こんな物じゃ済ませねぇだろうな? ぶっ殺されても文句を言うなよって、実際にそんな事をやってたんだよ、この人は・・・
人は笑った顔にその人間の持つ本性が表れるというが、爆笑する塩田剛三の姿には、狂気を含んだ狂暴さを感じる事が度々あったという。
澤井健一
太氣至誠拳法創始者
板垣が取材に訪れた
のは、澤井の弟子で
ある島田道男の道場
さあこい、お若いの
とある防具空手の有名どころが、塩田剛三に他流試合を挑みに養神館を訪ねて来た。
とても礼儀正しい人で、自分の身分を明かして、
「これこれ、こうゆう理由で、私とお手合わせ願いませんか」
これに対して塩田剛三は、耳が遠く物事もあまり理解できないような顔つきで、
「あ~、ああ」
ってやっていたという、大変な演技者だ。
「あ~私とそうですか? ハイ分かりました。でぇ、いったいぃ、いつぅ、やりぃますぅかぁ」
言葉だけでなく、動きまで全然ゆっくりな爺さんを演じ続ける。
口をもごもごさせている塩田剛三に対して、この空手家はあまりにも純粋なスポーツマンだった。
慇懃な姿勢を崩さず、
「今日、この場でお願いします・・・」
その言葉が終わるや否や、空手家は玄関に崩れ落ち担架で運ばれていた。
人差し指で、
咽喉元をえぐったらしい。
失神してしまった防具空手の選手を見下ろす塩田は、
「いや、若いな」
そう呟き、奥に戻って行った。
達人伝説
この一見好好爺に見える爺さんだが、この男にまつわる武勇伝は枚挙に遑がない。
1955年 終戦から10年、塩田剛三が養神館道場を立ち上げたのは、戦後の復興が進み色んな流派が町道場を建て始めた時代。
この時代の人達が今のように新聞に折り込みチラシを挟んだり、専門誌に新弟子募集中の広告を載せたりなんて悠長な事をする筈も無く、大山倍達や澤井健一などは東京中の武術道場を回って道場破りを繰り返し、強さを誇示する事で弟子を増やすという過激な生計の立て方をしていた。
しかし、この超武闘派の両巨頭でさえも塩田剛三の養神館だけは避けて通った。という伝説が残っている。
だが・・・
「大山と澤井? 二人揃って養神館にやってきたよ。二人とも礼儀正しかったなぁ」
実は澤井健一、マス大山、塩田剛三の三人が道場で顔を揃えているのだが、残念ながらここで夢の対決は実現していない。
二人は道場破りではなく、塩田の演武を見せて欲しいと養神館を訪れたという。
しかし、その僅か数日後、空手家を名乗る道場破りが養神館を訪れる。
「きっと、あの二人の弟子なんだろう。なんか、立ち上がって回し蹴りや、後ろに回って蹴ろうとしていたからなぁ。あんなの当たらないよ。ふにゃふにゃぁってやったら終わりだって」
ここまで読んで、塩田剛三の人となりを理解していれば分かると思うが、どうせえげつない事をして、マス大山と澤井健一の弟子をいたぶった事は容易に想像出来る。それを何が、「ふにゃふにゃぁってやったら」だ。その道場破りに来た人は、まんまと術中に嵌められたんじゃないかな、例に漏れず。
以上が、漫画家・板垣恵介が実体験を元に語った人間・塩田剛三であるが、腕に覚えがあるとはいえ、伝説の武道家達に突撃取材を敢行し、身を持って確認したその凄みを自身の作品に反映する事で、漫画の上とはいえ夢の対戦カードを次々に実現してくれる手法には感謝せざるを得ない。
この人の紹介は随分長くなってしまったが、最後に塩田剛三の学生時代の武勇伝でこの武神の章を終わりにする。
力試し
見ての通り非常に小柄な塩田だが、その腕力でも半端無いエピソードが残されている。
植芝 盛平の元で2年間の内弟子生活を終えた塩田は、休学していた拓殖大学予科に戻る。
その際、当時『拓大最強の男』と呼ばれ、「腕相撲では負けた事が無い」と豪語する筋肉モンスターに挑戦し、塩田は見事打ち負かしている。
「塩田は、俺と腕相撲で勝負したこともあったな。いや、強かったな。 あの頃、俺は身長170センチで85キロだったが、塩田は154センチで47キロだった」
「木村は、10回やって10回負けたとどっかでしゃべってたが、実際は3回やって初めの2回だけ俺が勝ったんだよ。 もっとも、3回目は手を抜いたんだけどな」
『拓大最強の男・木村』といえば、当然あの男しか居ない。
そう、この会話の相手は木村政彦。
「あんたは授業中いつも寝とったな。 木村が我々のクラスにいたから、誰も落第しなかった。 ケツから押し上げてくれたからな」
そして、この会話から分かる通り、伝説の武人と呼ばれる木村政彦と塩田剛三。
実はこの二人・・・
若かりし日の塩田剛三と木村政彦
最強を目指す若き二人の武人。
拓大予科時代から始まる、ふたりの出会いと成長を描いた魂の格闘青春録。
この著書では、ストーリー前半の鍵を握るもう一人の人物が登場している。
あれが “オオヤマ" だ
二人が拓大3年生の時、木村は牛島辰熊が心血を注ぐ東亜連盟の思想に賛同し日本の地に渡って来たという、朝鮮人青年崔 永宜を紹介されている。
「あれが “オオヤマ" だ」
この “オオヤマ" と呼ばれる青年、いや、二人の年齢差を考慮すれば、恐らくまだ17歳くらいだろうから少年と呼ぶべきかもしれない。
この少年は、木村政彦が天覧試合で魅せた圧倒的な強さに憧れ拓殖大学に入学した。といわれているのだが、年齢からするとこの頃は拓大予科だろう。
以後この少年は木村政彦の弟分を名乗り、思想活動の傍ら、戦中、戦後の混乱期を木村と行動を共にする事となる。
先輩、塩田先生といえば、「人が人を殺すための武術が必要な時代は終わった。そういう人間は自分が最後でいい」とか、「合気道は護身術として・・・」とか、その言動からも、凄い穏和なイメージだったんですけど? けっこうエグい事やってるんですね。
星くん、その自分が最後でいいって所がポイントで、塩田剛三自身はそうゆう技術を極めてるって事なんだろうね。
実際この人、戦時中には支那派遣軍総司令官の秘書として、台湾、中国、ボルネオ島と、前線をまわっているらしい。秘書といっても実質の用心棒だろうから、その当時には本当に命のやり取りを経験してるんじゃないかな。
武術ってのは、本来人を殺める為の技術なわけだから、そういう危険な技は沢山有るんだよ。しかし、一般に普及させる為にはそんなダークな部分を隠さなければいけない。
裏の顔が有るって事ですか?
星くんは、芦原英幸って知ってるかい?
あの空手馬鹿一代に出て来る喧嘩十段の?
そう、連載後半では主人公より人気が出ちゃって、大山倍達を怒らせたっていう、あの芦原英幸なんだけど、彼の話を聞くと分かりやすい。
芦原英幸の基本的な捌きのひとつに、回し崩し(巻き込み投げ)ってのが有って、これは片手の中指と薬指だけで脛椎を刺激して、相手の一切の動きを止める。これを強引に逃げようとすると脛椎を捻って半身不随になるような危険な技らしいんだけど、これについて芦原はこんな風に話してるんだ。
「これがホンマの巻き込み投げ、裏なんよ。こんなの道場で指導出来んやろ。毎日怪我人続きで生徒が来んようになるけえ。突き蹴りの怪我くらいじゃすまんけん。下手したら死人が出るような指導は出来ん。合気道の物真似なんて言われようが、生徒を怪我させず強くなった気持ちにさせとけばいいんよ、道場では。経営じゃけん」
これは裏の顔が有るというよりは、商売として成り立たせる為に、普段はその本質を表に出さないようにしている。って言った方が正しいのかも知れないね。
表立って見せる物じゃ無いけど、いざって時は・・・ って、
なんだか、プロレスラーみたいな話ですね。でも、喧嘩十段のイメージとは裏腹に、芦原先生って随分しっかりした経営者なんですね。
そりゃ芦原英幸って言えば、あのK-1を立ち上げた石井和義の師匠だからね、経営者としての手腕も相当な物だったんじゃないかな?
それでさ、大山倍達に破門された時の芦原の話がまた面白いんだよ・・・
先輩、また脱線しちゃいそうなんで、話を戻しましょう。
塩田剛三と木村政彦が同級生ってのも驚きなんですが、最後に出て来た “オオヤマ“ ってのは、大山倍達先生ですよね?
そう、この人は色々と名前を変えてるから、当時はなんて名乗ってたか分からないけど、極真空手の大山倍達で間違いないね。この頃の大山はまだボクサーだったらしいけど、この後くらいから木村政彦が通ってた松濤館空手とか剛柔流空手で空手を習ったんじゃないかな?
先輩、木村政彦と塩田剛三が同級生だったってだけで驚愕なのに、その後輩が大山倍達って? 拓大キャンパス半端ねぇ~ッスね。
ま~大山の方は、拓殖大学に在籍記録が無いとか、いろんな疑惑が有ったりするんだけど、兎に角木村政彦の事が大好きで、ずっと後を付いて回っていたってのは確かのようだね。
先輩、最後に1つだけ言わせて下さい。
若かりし日の塩田剛三と木村政彦って・・・・
アレ、思いっきり表紙に柴田勝頼・後藤 洋央紀って書いてますよね?
・・・