巨人 ⑮ 創世記 第2章 Strong Style | まつすぐな道でさみしい (改)

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ジョーサン道の正統後継者。

師匠は訳あって終身刑で服役中…

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1904年 牛島辰熊 誕生(熊本県横手町)

1917年 木村政彦 誕生(熊本県飽田郡)

1922年 大山倍達(崔 永宜誕生(朝鮮・全羅北道)

1924年 力道山 (金 信洛) 誕生(朝鮮・咸鏡南道)

1938年 馬場正平 誕生(新潟県三条市)

1939年 第二次世界大戦開戦

1940年 金 信洛(力道山)二所の関部屋入門

1945年 第二次世界大戦終結

1950年 朝鮮戦争開戦

1950年 力道山 大相撲廃業

1952年 2月 力道山 渡米

1953年 朝鮮戦争停戦

1955~59年 馬場正平 巨人軍入団退団







そこにはいろいろのタイプのレスラー...大内山より長身のポール・バンヤンや、大起より重量のあるボッブ・ハンフリーなどというバケモノ的巨漢レスラー、エンリキ・トーレスのような技巧派レスラー、ホンブレ・モンタナのようなショーマン、レオ・ノメリーニ、シャープ兄弟のようなストロング・スタイルのレスラーと多士済々がいて、そのいずれもの対戦が私にとって、この上ないよい体験であった。

私はこれらのレスラーとの対戦から、あくまで勝負重視のストロング・スタイル...日本のプロ・レスリングの社会では、これを「セメント」という...に生きるべきであるという結論を出した。

私はプロ・レスリングをショーといわれることを毛嫌いする。私は試合に生命をかけている。いかなる場合でも、勝つこと以外には考えない。これは私だけでなく、すべての弟子たちにきびしくいっている。


初のアメリカ遠征を振り返って...
(空手チョップが世界を行く-力道山自伝)








ワイキキビーチ
「よくきたな。これからが君の本当のスタートだ。ついては君の助言者になる人を紹介しよう。オキ・シキナ...日系プロ・レスラーの草分けの人だ」


1952年 2月3日 ハワイの大物プロモーター、アル・カラシックからの招待状を受け取った力道山は単身ハワイに乗り込む。


ブランズから紹介されたのは初老の太った日系人。

沖は「リキドーザン、一緒にプロ・レスリングやろうよ」とぶっきら棒に表情ひとつ変えずに言い。

「沖は日系新聞で君がハワイに来る記事を読み、興味を持って君の助言者を買って出たのだ」とカラシックが説明する。

力道山はこのポーカーフェイスでぼうようとした沖にいいしれぬ親近感を懐き「よろしく」と言ったが沖は「OK」と返すだけだった。


その日から力道山は沖識名と名乗る老人の下、YMCAのジムに通い本格的トレーニングを行うことが日課になった。


「リキドーザン、休んじゃ駄目だ。走ってスタミナをつけるんだ」

トレーニングが終わると、沖はロードワークを命じる。それもワイキキの砂浜を走るので、相撲取り上がりで走ることの苦手な力道山には大変な苦痛でだったが、沖の計画的なトレーニングメニューをこなす内、力道山の身体は相撲取りのそれからプロ・レスラーの肉体に徐々に変化して行く。

腕が太くなり、ももに筋肉がつきダブついていた腹がへこみ、胸がせり上がってくるのが目に見えた。力道山の体重は、日本を発つ時に三十四貫(128kg)有ったが、この遠征が終わる頃には二十九貫(109kg)まで絞られている。










海外デビュー
「これが試合場だ」

沖に連れて行かれたのは、シビック・オーデトリアム(市民公会堂)。玄関横にはラッキー・シモノビッチ、ダーティー・ディック・レインズ、 チーフ ” リトル・ウルフらと並んで “ RIKIDOZAN ” と横文字で大書きした等身大の立て看板が立て掛けられていた。

沖はその中の一つ、鳥の羽をいっぱいさした帽子をかぶった精悍なアメリカ・インディアンを指し、「これが君の最初の試合相手だ。“ チーフ ” リトル・ウルフ(狼酋長)と名乗る荒っぽいレスラーだ」と説明した。





1952年 2月17日 の夜、海外初戦が組まれたのは、力道山がハワイに着いて14日目。

“ いよいよ時が来たな。日本人の面目にかけて戦うぞ ” と身体中がゾクゾクするような感情が沸き起こる。

そんな想いに駆られながら、ふと沖の顔を覗くと、相変わらず無表情のまま。この男は親切なのだが、頼りになるのか頼りにならぬのか、まったく分からない。



「楽な気持ちでいけ。君の腕力と体力があれば大丈夫だ」

そう沖に声を掛けられるも、海外での初試合...東京でのブラウンズとの初試合とはまた別の緊張があり、ガチガチになっていた。

東京でのブラウンズ戦の時は、まだプロ・レスラーでやって行くという決心が付いていなかったが、こんどは石にかじり付いてでも一人前のプロ・レスラーにならなければならないという意地がある。プロ・レスラー力道山としては、これが本当のデビュー戦ともいえる。その門出だ。



対戦相手は、" リトル " というだけあって外国人にしては小柄だが、赤褐色をした肌は弾力が有りそうだし、精悍な面構えで、目つきがなんともいえない不気味さを醸し出している。


リングに入り、コーナー下で見守る沖に着物スタイルのガウンを渡すが、その顔は相変わらず無表情だ。そんな事を考えていた矢先、力道山はプロの洗礼を浴びる事になる。

チーフがゴングが鳴る前からいきなり拳を振って殴り掛かって来たのだ。流石にコレには面食らった。考えてみればブラウンズ達は、新弟子の力道山にプロ・レスリングを教えるように丁寧な試合をしてたので反則行為は行わなかった。だがこのリングは違う、チーフのなりふり構わぬラフファイト驚きながらも、これは力道山の闘志に火をつけた。


殺し合いなら負けないという自負がある。チーフが拳を振って殴り掛かるのに対して、張り手で渡り合い張り飛ばす。


この時のチーフの怯えた表情だけは鮮明に記憶に残っているのだが、後はもう無我夢中で攻め立てた。張って、殴って、投げ飛ばす。そしてリングに這い上がろうとするのを何度も蹴り飛ばして落っことした。


力道山のレスリングには攻撃があっても守備はなかった。チーフには " ウルフ " のような闘争心は欠片もなくなり追い詰められた泥棒猫のように萎縮し、試合は力道山のフォールで終え

海外での初戦を勝利で終えた力道山だが、この時は自分の勝利よりも、なんとだらしの無い奴だと軽蔑する気持ちの方が強かった。


試合時間8分40秒。無我夢中だった事も有るが、その時間はそれほど長くは感じなかった。ブラウンズらとの試合は10分が何時間にも感じていたのだが、今度は違う。それだけの体力と持久力が付いて来たのだと満足する力道山に、沖の言葉は厳しかった。

「リキドーザン、勝つばかりがプロ・レスリングのすべてじゃない。プロ・レスリングはお客さんがあってのものだから...」


この時の力道山には...まだ沖のいう言葉の意味がよく理解出来ていなった。









シビック・オーデトリアムはフルハウスで六千人収容の中規模のホールで有るが、毎週日曜日に1回プロ・レスリングの定期興行が行われており、これに力道山は毎週出場した。

週末にはリングに上がり、平日は沖の下トレーニングとワイキキビーチの8,000メートルもの距離を砂に足を取られながらランニングを続け、本来持つ相撲で鍛えた打たれ強い身体に加え、プロ・レスラーに必要なスタミナとテクニックを身に付けて行く。


当然、この頃にはまだ日本にプロレス団体は存在しない。この後アメリカ本土に単身殴り込みを掛ける事になる力道山にとって、沖と共に過ごしたこのハワイでの4ヶ月間というのは、現在で言う所のヤングライオン(新弟子)の修行期間のようなものだったのかもしれない。





沖織名
沖縄県からハワイに移住した日系
アメリカ人。ハワイ相撲の横綱や
ハワイ柔道選手権者として活躍し
た後、1931年プロレス入り。柔道
仕込みの関節技の名手で実力者と
しての評価も高く、現役時代は惜
しいところでタイトルには手が届
かなかったが、5人の世界チャン
ピオンと選手権を争っている。19
48年の現役引退後は若手の育成に
着手し、若い頃のルー・テーズに
レスリングを教えたというのが自
慢のひとつだった。力道山のコー
チ以後、日本プロレスで長年に渡
ってメインレフェリーを務める。
特に暴走する外国人レスラーに着
ているシャツを破かれ、試合終了
後にはいつも上半身裸にされてい
るというのが定番ムーブとなる。




私はチーフとの第一戦以来ずっと目いっぱいの手加減のないファイトを続けた。沖が第一戦を終わったときにいった。「プロ・レスリングは強いだけがすべてではない。お客さんが対象...」という言葉はそこに手加減とかスタンド・プレーとかを誇張する意味ということはようやくわかったが、私はそれに妥協することを許さなかったし、断固として排せきした。

私はショーマンシップたっぷりのレスラーをきらう。これは私が勝負本位の全力ファイト...ストロング・スタイルのレスリングをしているし、十二年間のレスラー人生を通じて金科玉条としている。だからこそファンの方々が私を支持してくれるのだろう。私のこの考えはあやまっていなかったと思う。


(空手チョップが世界を行く-力道山自伝)





覚醒
「リキドーザン、アメリカには三千人以上のプロ・レスラーがいるんだ。そしていろいろのタイプをみんながもっている。カラフール(個性)ということだ。人気の有るプロ・レスラーはこのカラフールが強い。」


試合数をこなすうち、力道山も段々とプロ・レスリングという物の仕組みを理解するようになる。

シビック・オーデトリアムに集まる観衆は、クリーンなファイトにはさかんに拍手を送り、アンフェアな行為にはブー、ブーと物凄い不満な声をあげる。床をドンドンと踏み鳴らし、時には口に含んだ生卵をレスラーに吐きかけたり、物を投げつけるのだが、観客はそのすべての行為を楽しんでいる。



1952年 力道山が初の海外遠征に出た当時、アメリカでは1940年代に始まったテレビ放送のコンテンツとしてプロ・レスリングは人気を博し隆盛を極めていた。

アメリカとカナダを合わせて3,000人にも及ぶレスラーが凌ぎを削り、毎年一攫千金を目指す500人もの若者が門を叩き同じ数だけ消えて行く。そんな熾烈な生存競争のなかで各レスラーは生き残りを掛け、そのカラフール(個性)を競い合う。

この頃、特に人気を集めたのが派手なスパンコールのガウンに身を包み、威風堂々のレコードをバックにレットカーペットの上を執事を引き連れ歩き、香水(”シャネルNo.10番”もちろん架空銘柄)を撒き散らしながらキザなポーズでリングインするという、兎に角テレビ映えのする派手なパフォーマンスを披露する。ゴージャス・ジョージを頂点とするショーマンシップたっぷりのレスラー。




そんな中、派手なパフォーマンスを嫌い勝負本位の全力ファイトのストロング・スタイルのレスリングを繰り返す力道山は、日本からやって来た一昔前の原始人のような存在だった。いつも姑息な反則を繰り返し負け役であるはずのジャップが、必死に喰い下がりなかなか負けないのだから、いつものお約束の展開を期待しビールを片手にやって来た観客はストレスを溜め、当然会場は大ブーイングに包まれる。


しかし、どんなにブーイングを浴びようがその信念を曲げることの無い力道山のファイトスタイルに、会場の雰囲気も徐々に変化を見せ始める。

明らかに体格で劣る力道山が体の大きな外国人を相手に真っ向からぶつかり、倒されても倒されても、時にはボロボロになりながらも喰い下がり、ただ愚直に勝利だけを求め起き上がる。そんな時代錯誤のファイトが観客の心を掴み、気付けばシビック・オーデトリアムには連日大勢の日系人が詰め掛け、力道山は大観衆の声援を背に戦うメインイベンターに登りつめていた。


レスラー達がスタンドプレーに走り、派手なパフォーマンスを競い合う。そんな時代に逆行するような、何の装飾もない実直な男のファイトスタイルはいつしか...強烈なカラフール(個性)となっていた。

 

しかしこの時、男はまだ誇れるような実績は何も持っていない。


誇れるようなタイトルも持たず、まだ何者にもなっていない...


そんな、何も持たない丸腰の男は、己の中に芽生えた始めたばかりのStrong Styleというカラフール(個性)を携え...



男は、たった一人で大国(アメリカ本土)に喧嘩を売りに行く。
 




時代
プロ・レスリングは時代と共に進化し、その時代のニーズに合わせ少しずつそのスタイルを変化させて行った。


一見、この時代のとはまったく別の物に変わってしまったようにも見えるプロ・レスリングだが...


その根底の部分には、男がこの南の島の楽園で芽吹かせ、日本の大地に植え付けた。



Strong Styleという概念だけは、今も色褪せること無く生き続けている。










1961年5月25日 富山市立体育館
 








1988年8月8日 横浜文化体育館
 







1991年8月7日 両国国技館
 








2001年12月31日 さいたまスーパーアリーナ
 








2015年8月8日 横浜文化体育館

















King of strong style