巨人 ⑯ 創世記 第3章   ベン&マイク | まつすぐな道でさみしい (改)

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ジョーサン道の正統後継者。

師匠は訳あって終身刑で服役中…

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1904年 牛島辰熊 誕生(熊本県横手町)

1917年 木村政彦 誕生(熊本県飽田郡)

1922年 大山倍達(崔 永宜誕生(朝鮮・全羅北道)

1924年 力道山 (金 信洛) 誕生(朝鮮・咸鏡南道)

1938年 馬場正平 誕生(新潟県三条市)

1939年 第二次世界大戦開戦

1940年 金 信洛(力道山)二所の関部屋入門

1945年 第二次世界大戦終結

1950年 朝鮮戦争開戦

1950年 9月 力道山 大相撲廃業

1951年 9月30日 「朝鮮戦争在日国連軍
        慰問プロレス大会」開催

1951年 10月28日 力道山プロレスデビュー

1952年 2月3日 力道山 渡米(ハワイ)

1952年 6月10日 力道山 米本土上陸
                              (サンフランシスコ)

1953年 朝鮮戦争休戦

1955~59年 馬場正平 巨人軍入団退団






二回の対戦を通じていえることは、体格は両者とも甲乙ないが、うまさでは兄のベンのほうがまさり、強さというか馬力では弟のマイクのほうが一枚上と見た。そして二人のチームワークの見事さには、対戦するごとに感服した。

試合を離れてのシャープ兄弟にも感心させられた。ジェントルマンということで、その点シャープ兄弟は試合も日常生活も第一級の人物である。

シャープは来日しても孤児院を訪ねたり、不具者に寄付したりしているが、これは彼らの人間愛の現れである。レスラーに共通していえることは、リング上ではひどいことをやらかしながら、なかなか涙もろいということだ。

自分が強いから世の中でなにもこわくないはずだが、それが普通の人とちょっと気持ちがちがう。そういう立場で不具の子供なんかを見ると、気の毒でたまらなくなる。

シャープ兄弟が  ”助け合い運動” の非常な協力者と聞き私はシャープ兄弟が好きになった。

(空手チョップが世界を行く-力道山自伝)







空手チョップ
「リキドーザン、君のことはカラシックから聞いている。なんでも凄いチョップを持っているという事だが、そのチョップを君のフェバレット・テクニック(得意技)にしろ」

1952年 6月10日 サンフランシスコ空港には、一目でレスラー上がりと分かる白髪まじりの大きな男が迎えに来ていた。


ハワイを後にした力道山は、アル・カラシックの兄弟株のプロモーター、ジョー・マルコビッチの元を訪ねるのだが、この男は太平洋岸一帯のプロモーターを束ねるNWAの幹部である。この時点では、まだ一人前のプロ・レスラーになろうと、ただ我武者羅に突き進んでいるだけの力道山は気付いていないが、この大物プロモーター達との出会いはアメリカでの活躍だけに留まらず、帰国後日本プロレスを立ち上げる事となる力道山にとって貴重な財産となる。




1952年 6月12日 サンフランシスコ ウインター・ランド、本土に渡って3日目の夜には力道山アメリカ本土デビューを果たしている。

対戦相手は、“ ケンタッキーの砲弾 “ アイク・アーキンス。異名に恥じない荒法師で、力道山はラフ殺法で徹底的に痛め付けられるのだが、マルコビッチに指摘されたチョップ...後に「空手チョップ」と呼ばれるチョップを叩き付けると、相手は怯み一気に形勢逆転本土での白星発進を飾る。


この時はまだ日本で行うような水平打ではなく肩口への乱打だったが、アーキンスを何度も倒した事でチョップの破壊力に自信を付けた力道山はこのチョップを得意技として磨きを掛け、一般的にイメージされる力道山のスタイルが完成されて行く事になる。


そして、この一戦で力道山の実力とキャラクターを見極めた大物プロモーターは、力道山の売り出しに着手する。







メインイベンター
「リキドーザン、カルネラなら君のチョップの相手として不足はないだろう。パンチかチョップか? お客さんはきっと喜ぶに違いない。」

アーキンス戦の3日後、力道山はマリオ・デ・ソウダをチョップと張り手で破っていた。本土での2戦を消化し、若干心に余裕が出来た力道山にマルコビッチはプリモ・カルネラとの対戦を告げる。


カルネラは、プロ・ボクシングの元世界選手権者と知られ、202センチ、128キロの巨体でボクサーあがりの強パンチを売り物にするトップクラスの人気レスラー。しかもメーン・エベント(六十分三本勝負) 

新聞も大々的に、” ボクサーと日本力士の一騎打ち“ を報じる。この宣伝文句をアメリカ人の好奇心を煽ったのか、5千人収容のウインター・ランドの試合場は超満員に膨れ上がった。



1952年 6月17日 力道山はアメリカ本土に渡りたった3戦目でメインイベンターという、中西学のデビュー当時を彷彿させる大抜擢を受ける。しかし、これはあくまでも力道山が単身アメリカ本土に乗り込んでのもので、所属の新日本プロレスから大プッシュを受けてデビューした中西とは、当然比べ物にならない快挙。



相手が誰であろうと構わない。大きなタフな相手であれば、チョップも張り手も、投げつけることも思いっきり出来る。どうやってフォールするかだけを考えればいい。

闘志を漲らせる力道山は、不足のない相手に猛烈なぶちかましをくらわせ、すくい投げからチョップを乱打。カルネラのサザエのようなゲンコにもひるまず攻める力道山だったが、そこは流石にトップレスラーだけあり簡単には決めさせてくれない。カルネラの老獪なテクニックでグラウンドに引き込まれ、長く太い足でボディー・シザース(胴しめ)に捕らえられた力道山は呼吸が苦しくなり、堪らずギブ・アップ(降参)してしまう。


しかし、当然そのままで終わらせる力道山ではない。寝技では体格に勝る相手に不利だと悟った力道山は立ち技に活路を見出し、チョップと張り手の連打でフォールを奪い返し1-1のイーブンに持ち込むものの、いよいよこれからという所で時間切れ。勝利を得ることは出来なかったが、本物の強者と呼べる対戦相手との試合内容は力道山自身も満足のいく物だった。


そしてなによりも、アメリカ本土での始めて体験するメーン・エベントを無事終了し、安堵感で全身の力が抜け落ちそうになる。


そんな満身創痍の力道山の元に歩み寄り、声を掛けるマルコビッチの言葉は耳を疑うものだった。







きのうの敵はきょうの友
「リキドーザン、君は今度カルネラと組んでワールド・タッグ・チーム・チャンピオンのシャープ兄弟と23日に対戦するのだ」

” きのうの敵はきょうの友” という言葉があるが、パンチとチョップで渡り合ったカルネラとチームを組んで、まさか世界タイトルにチャレンジする事になるとは流石の力道山も考えもしなかった。


「カルネラのパンチと君のチョップのコンビは、きっと観客にうけることだろう。それに相手はワールド・タッグ・チーム・チャンピオンのシャープ兄弟だ。君たちのチームが勝てば、君たちは世界一のチームになるんだ」

マルコビッチは、こうした観客にアピールするようなカードを組み、選手を売り出す手腕にかけては右に出る者がないほどの敏腕家だ。



1951年 5月16日 サンフランシスコでサンダー・ツアーボ、プリモ・カルネラ組とシャープ兄弟の間でワールド・タッグ・チーム・チャンピオンシップを争い初代チャンピオンとなって以降、シャープ兄弟がずっと保持し続けているタイトルで、カルネラとしてはなんとかシャープ兄弟に雪辱したいところだろう。


そしてこれは、力道山にとっても格別の思い入れがある対戦相手でもある。

ハワイでの修行時代、滅多に人をほめることの無い沖識名の口から、ストロング・スタイルの権化として偶像的ヒーローとされるルー・テーズと共に、兄弟のキズナに結ばれるチーム・ワークからのタッチ攻撃は前代未聞のものだ。しかもこの二人はシングルでも有数の使い手だと聞かされていた。

ルー・テーズ、シャープ兄弟。いつの日にか、このような強敵と戦ってみたい。こうした目標を持つことで力道山はハワイでの地獄の特訓を耐え抜いてきた。





1952年 6月23日 サンフランシスコ  カウ・パレス。タイトル・マッチはウインター・ランドではなく、たいがいがこのカウ・パレスで行なわれる。8千人を収容する体育館は売り出し中のスモウ・レスラーのタイトル初挑戦という話題もあり、超満員に膨れ上がっていた。

「君はチョップでいけ。オレはパンチでやる。シャープ兄弟はタッチ・ワークが実に巧妙だが、チョップとパンチにはかなわない」

そうけしかけてくるカルネラだが、力道山のチョップは反則ではないが、パンチは反則...そのパンチで涙をのむことになる。

シャープ兄弟は揃いの茶のジャンパー。カルネラは黒いガウン。そして力道山は怒濤を染め抜いた日本調ガウン。長身の3人に比べ、力道山ひとりが頭1つ分低い構図となる。


さすがに世界一のチームワークを誇るシャープ兄弟だけあって試合のかけ引きはずばぬけいた。1対1ならもちろん負けない自信はあるが、血のつながる兄弟の呼吸というのは恐ろしく、彼らは二人合わせて三人にも四人にもその力が膨らむ。

しかも彼らは知らない間に力道山を自分のコーナーに引きずり込み、すばやいタッチワークで次々と攻撃を仕掛けてくる。それでも強引に一人をニア・フォールまでもっていっても、もう一人がリングに飛び出して味方を有利な態勢にしてしまう。これには力道山も根負けしてしまった。

そんな攻防に堪りかねたカルネラがゲンコをふるって殴りつけてしまう。反則のコブシ打ちの乱打にレフリーはカルネラの反則負けを宣言。カルネラは必死にレフリーにアピールするが後の祭りである。

一本目を先取され、後のなくなった力道山は思うぞんぶんチョップを二人の叩き付けた。ベンの額が割れ血だるまになったところでフォールに持ち込み1-1、あと一本取れば世界タイトルに手が届くところまで追い込んだのだが、チャンピオンチームの巧みなインサイドワークで時間切れに持ち込まれ、力道山のタイトル挑戦は引き分けに終わった。


この渡米中、力道山は本土2戦目で対戦したマリオ・デ・ソウダと組みシャープ兄弟に再度挑んでいるが、これも初戦同様引き分けに終わっている。


タイトルに手は届かなかったものの、力道山はこのシャープ兄弟との対戦を通じ、二人が全米屈指の実力者だと認識すると共に、タッグ・マッチという他の格闘技にはないプロ・レスリングの面白さと奥深さを身を持って知る事となる。



この一連の抗争で生まれた信頼関係が、日本プロレスの旗揚げシリーズに華を添える事は、今更説明の必要も無いだろう。



1954年2月17日シャープ兄弟 来日
























1992年

1996年

2015年