今回も、大阪在住の私のブログ読者の方から御教示頂きました。


 佐久間勝之の娘と、豊後竹田・岡藩の家老であった中川隼人正資重(旧姓・熊田藤助)が結婚して、その家が今も大分に続いている事は何度もお話しています。


 今回、その勝之の娘の院号が「寿勝院」だと判明しました。


 「勝」は父の名から取ったのでしょうか・・・・?


 「竹田市立歴史資料館研究報告書・中川(熊田)家文書」の中にも、佐久間勝之からの中川隼人正・玄蕃の家人(?)下石甚右衛門宛書状が残っているそうです。


 寛永六年(1629)の江戸城普請の折に、その奉行であった勝之が、岡藩に石工・穴太衆の派遣を依頼している頃のものだそうです。


 佐久間家と中川家との交流の足跡が、やはり竹田にも残されていたのですね。