中川家文書「諸士系譜」という資料を頂きました。


 それを見ると、豊後岡藩・中川家には家老職をしていた家が五家(田近二家、戸伏家、古田家、熊田家)あったそうです。


 田近家は初代が田近新次郎といい、中川姓を下賜されて中川平右衛門と名乗ります。もう一つの田近家は中川玄蕃を名乗ります。


 戸伏家は初代を戸伏宗慶といい、二代目の助之進から中川姓が下賜されます。


 古田家は初代が、お茶人で有名な古田織部重勝で妻が中川清秀の妹・せんになります。その四代目内記から中川姓を名乗っています。


 熊田家は初代の熊田千助が中川清秀の奥方・稍の弟で、中川姓を下賜され資勝と名乗ります。その三代目隼人正資重の奥方が佐久間勝之の娘・寿勝院です。


 その二人の子である資弘ですが、弟の平兵衛の所に次男の数馬を養子に入れます。この人を佐久間資則と改名させ、今も続く勝之の血を引く新しい佐久間姓の家を興します。熊田家本家の方は、この資則の兄・資長が家督を継ぎました。


 因みに、今回の資料で佐久間勝之の娘・寿勝院が、明暦元年(1655)五月二十日に亡くなっている事を知りました。