人生の帳尻は必ず合う
代償の法則は「縁起の理法」と呼んでもよいのですが、
「得られるもの」と「払った代価」は、
きちんと釣り合うようになっていて、
最終的に帳尻は必ず合うことになっているのです。
『生命の法』 P.40より
今世だけ見ると、帳尻が合わないこともあります。
しかれども、来世、来来世、前世、前々世を見ると、今世や来世等で代償の法則が働き、必ず帳尻が合うようにできてるのが、今、私たちがいる仏神が創られた世界です。
よくカルマの刈り取りと言いますが、善人が今世不幸であるなら、過去世からのカルマがあり、その刈り取りをさせられていると言われることもあります。
また、今世で新たなカルマをつくることもあります。
なりすまして人を騙したり、公開の場で嘘を付き人を貶めたりすれば、新たしいカルマの種を蒔いたことになるのは、当然のことです。
そういう人は、今世、平穏に暮らせれたとしても、霊界においては地獄に堕ち、来世は厳しい人生が待ってるでしょう。
その点、私は何が起きても、安心しているのです。
それは、私が何事にも善意でもって、人と接しているからです。
さらにいうと、今世、悪の限りを尽くした人が、幸せの内に人生終えてしまった、世の中は、なんと不公平だと思うこともあるでしょう。
ですが、霊界があり、転生輪廻がある限り、必ず代償の法則が働き、不公平なことは起きず、必ず必ず帳尻が合うようになってます。
悪は、その反省をさせられ、地獄に堕ち、来世においては、カルマの刈り取りを自ら行わなければならないのです。
だから、今世において、悪事を為し、その悪が発覚しなくとも、神の見えざる手による因果応報が100パーセントの確率で起き、その悪に見合う代償とカルマを背負うことになります。
反対に人を助け、かつ、かばって、何かの勘違いで悪人に仕立てられ、それでも宗教的善意で生ききったにもかかわらず、一見したら不幸な人生を送った人がいたとしても、それも代償の法則が働き、天国で賞賛され、幸せな転生輪廻が待っています。
このように、悪人が悪のまま勝利し、善人が今世において敗北したとしても、天国地獄があるため、必ず帳尻が合うようになっているのです。
だから、人には優しく接すれば、その善行は必ず自分に返ってくるのです。
『情けは人のためにならず』
ということわざの真の意味は実はここにあるのです。
情けを人にかけたら、必ず自分の善行として戻ってくる真実があるからです。
その善行の見返りは、相手から返ってくるのではありません。
神様から、その見返りはくるのです。
ほんのささいな優しさも神様は見逃しはしないから、安心して善行を積んでもらいたいと思っています。
それは、おそらく霊界においては10倍の尊敬と賞賛として返ってくる感覚と思った方が良いでしょう。
世の中には、人から奪うばかりの利己主義者がいますが、
その真の事実を知れば、真の利己主義者であればあるほど、人を愛することの重要性が分からなければいけません。
それに、人から愛を奪ったり、哀れみを受けたとしても、なんら魂の成長にはなりません。
魂の成長になるときとは、その人が神の代わりに、他人に何かを為したときです。
神の代わりに人を愛し、神の代わりに人に善行を施したときなのです。
その善意が、その善行が、実は神から恩恵として与えられるのです。
なので、自信をもって、100パーセントの確信をもって、人を愛し、人を生かし、人を許すべきだと思います。
その人のために汗を流した代価は、他人ではなく、神によって帳尻が合うようになっています。
その人のために流した涙は、他人ではなく、神の御光によって、それもおそらく10倍の喜びを伴って癒されるものだと思います。
そのために、私は安心して何事も心配なく、人生を歩んでいられます。