忘れられない夢がある。


小さい頃にみた夢で


もの凄くリアルで


もの凄く辛かった。


それはまるで今朝みた夢なんじゃないかと錯覚してしまう程、


いつ思い出しても鮮明なのだ。



自分の暮らす街から忽然と人がいなくなってしまう。



夕飯らしき匂い、家に灯るあかり…


そういったものだけを残して人だけが忽然と姿を消してしまった。



私は絶望感でいっぱいで、ただとにかく誰か残っていやしないかと



街の中をがむしゃらに探し続ける。



そんな夢。




小さい頃の私はいつも何かを探していた。


木の幹の割れ目、

建物と建物の間、

林の奥、

人気のない岩場の海辺、

小川の始まり……



だもんで、幼い頃から頻繁に迷子になった。


私自身は迷子になったつもりはなく、


いつも家族に見つかってこう思う。


また見つける前に見つかった。





山の中の道を車で走れば、いつも森から目が離せない。


それは大人になった今でもそう。


度々、道筋の様なものがみえる。


それは実際にある道ではない。


エネルギーの通り道、あるいは何かに辿り着く為の道筋。



「今のとこ行ってみたい!!」


そう言っては必ず


「何も無いでしょ!」


そう言われる。




ずっとずっと


幼い頃から私は探している。



本来の居場所と繋がる入口。



異次元の入り口を。




ここに来てやっと確信する。


やっとだ。


幼い頃の記憶。


浮き上がる遠い昔の記憶。


仲間達の中から浮き出て来たもの。


肉体のない存在から得た情報。


その情報を裏付ける為に調べ上げた情報。



点だったものがやっと繋がって、腑に落ちる。



点を集めて集めて、やっとまた一つ記憶の断片を手に入れる。



それを集めて集めて、やっと少し明かされる。



何も、瞑想やイニシェーションでなく


いつも普通に暮らしてる中で、


え!?今!?


って時にそれがわかる。




日々の暮らしの中に当然に組み込まれている。




いつも協力的な夫にさえも


度々呆れられる。




毎夜、肉体のない宇宙的存在にライトボディを引っ張られたり、


時には肉体ごと持ってかれそうになったり、


変な装置を仕込まれたり、


縄文人はやってくるは、


なにやらかにやら…


日常がそんな事だらけだもんだから、


正直、ブログを書くのも躊躇する。



でももう、そうは言っていられない。



多くの人があの時のやり直しをしている。


自覚なく


やり残した事をやろうとしている。


浮き出ているあの時の思いに惑わされて


また同じ事を繰り返そうとしている。



もう終わらせよう。



歴史に残っていない北海道で起こった事。





いつだって真実は隠されている。


本当に凄い存在は表に出ないし、


重要な存在こそ隠されている。



真実を見極める目を養うには


ハートを養うしかない。


ハートでしか真実は掴めない。





宇宙人も天使も神様と呼ばれる存在もいる。


闇の存在も当然いる。



高次元の存在は優しくなんかない。


彼等は『愛』に満ちている。


けれど、『愛』というものを自分らの都合良く解釈しているのならば、


『愛』を感じないだろう。


彼等は人間のエゴを満たす為の存在ではないから。


ハイアーセルフもペラペラとあーしなさい、こーしなさいと言ったりしない。


学びを奪う様な事を彼等はけしてしない。




光ばかりを追いかけるのなら


それを止めない限り、ジャッジをやめられない。




脳みそなんてたいしたアテになりはしない。




『感じること』


それが宇宙の摂理。



感じられなければ理解は出来ない。




感じる事を始めなければ


自分とは出会えない。





この地には悲惨な時代があった。


まるで血の海な殺戮の嵐。


反対に調和の時代もあった。


豊かな精神の時代。



今生きる人達は


おそらくその両方を経験した人が多いはず。




どちらを終わらせ


どちらを呼び醒まし進めるかは


自分が決めるしかない。




精神の時代を生き、光に還った人達は言う。



『しあわせ』とは心の状態を示している。


それは物質では埋められない。


何かを所有すればする程、失う怖れを産み出す。


安定させようと望むあまり、心が不安定になる。


安定もまた、心の平穏でしか得られないものだ。


心が『しあわせ』である時、苦しみの偉大さを知る事ができるだろう。


そしてそれの悦びを味わうだろう。