金木犀の香る今ごろの季節になると、決まって思い出すのが、あの小道だ。

ひっそりとしていて空気が澄み、ふと見上げると、建物の隙間から、まるで折り紙を細長く切り取った様な青空が見える。

まだ上京して間もない頃、都心から電車で20分程の住宅街に小さなアパートを借りた。歩いてすぐの最寄り駅まで、急ぎ足で行き来するのが日課であった。

ある日の帰り道、ふとその小道を右手に視線が捉えたとき、不意に、なんとも甘く優雅な、熟れた果実を想わせる香りがした。それは、たちまち私の鼻の奥の繊毛にふわりと絡みつき、嗅細胞を刺激し、電気的信号に変わり、大脳辺縁系にたどり着くや否や、急ぐ私の足を瞬間的に止めたのだった。思わず小道に入り、深呼吸をした。

それは美しい初秋の香りであった。
そして豊潤な胸騒ぎのする、実りを迎えた命が持つ特有のエネルギーに充ちていた。

その頃の私は無名のタレント活動をしており、毎日、オーディションと現場と自宅の往復に明け暮れていた。その夜は、帰り際に嗅いだ、あの、甘美な震えにも似た感覚が、身体と心にまとわりついてはなかなか離れなかった。だから、そのまま、うっとりとした気持ちのままに疲れを癒すため、いつもよりぬるめの湯舟に長く浸かっていたことを憶えている。

その時だった。

電話が鳴り、取るとマネージャーが興奮していて、何やら良い仕事が決まったと言う。

それは有名な俳優さんばかりが出演する話題の映画の端役で、駆け出しの私にとっては、なんとも嬉しく有難い話だった。

当時付き合っていた彼が早速駆け付けてくれ、彼の自慢の得意料理で乾杯した。

そう、金木犀のあの情熱に満ちた美しい香りは、あの夜に夢の扉をそっと開いて、いつの間にか少女から大人になった、ひとりの無名の女優を静かに祝福したのだ。

あれから20年の月日が流れたが、金木犀の瑞々しい香りは今も何も変わらない。あの小道の金木犀も、今も変わらず香しい姿で佇んでいるのだろうか。

人生経験を積み、変わったのは、私の方だ。

しかしあの時、ささやかな夢を運んで来た甘い香りは、今ではそっと、芳しい想い出の欠片をこの心に、なんとも麗しく連れて来るのである。

 

Aisha

 

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