志 和 槿 在 宮


高岡郡東又村志和浦に昔、
領主志和和泉守則重といふ武家があった。

一女おまん御寮と呼ばれて
花顔雪膚の美女であって
則重夫婦も掌中の珠といつくしみ育て上げた。

のち年頃となり
隣村窪川村の西原紀伊守藤兵衛重介に嫁し、
大変睦まじく時を送るうち、
ある時妻女おまんの方が藤兵衛に
私に恨めしい事があり、
暇を給わりたいと云う。

それは夜な夜な我が閏に通ってくる者があり、
始めは断っていたが遂に随い、
夜もすがら話し合い帰っていった時は
夢が覚めたような感じだった。

どのような化生の所為か浅ましい次第で
御暇を給わりたいと声を上げて泣いた。

藤兵衛も驚き不審は晴れなかった。

そうこうする内に大永七年(一五二七)三月二十二日
おまんの方はふと庭木の下を
平地を行くようにして歩いて屋外に走り出たので
藤兵衛は驚き引留めようとしたが、
幾尋の大蛇となって淵の底に入った。

おまんの父和泉守も心配をして
下男次郎介に様子を探らした。

或時次郎介草苅に出て鎌を失い
草叢を探っている内にふと或る家を尋ねたが、
そこの主婦を見ると
紛うこともないおまん御寮であった。

おまんも又次郎介を見て
お前に逢いたさに鎌をここへ隠した。

私は前世の宿業力及ばず
わが夫はここからより二十町北にあびやらしの淵の主です。

今そこへ行ったが留守で小供達は寝ていた、
これを見よというので見れば皆小蛇である。

次郎介は帰ってこのことを報告したが、
自分も又物に狂い行方不明となった、
おまん父和泉守深くこれを嘆いて
志和天満社の傍に一小社を建て槿(むくげ)花の宮と称し、現存する。

またその淵は鵜の巣の淵というてこれも又現存する。

この話は昔から
名高く且つ古くから伝えられた伝説と見えて、
天正中に
長宗我部元親が国中巡視の時これを聞き、
哀れと思われ其の遺跡を
吊ふたということがある、
然し全くは三輪山伝説の変じたものである。(土佐物語)  
       
大正十四年、
私は親しく右の高岡郡志和村に遊び
同一の古伝を父老より聞き又所謂、
槿花宮に行ったが、
卿社天満宮の後山に
ささやかな祠堂を営んでこれを祭ってある。