三つ葉葵


三つ葉葵・三つ葵
(みつばあおい・みつあおい)は
日本の家紋「葵紋」の一種で、
葵の葉を3つ描いた図案の家紋のことである。

通常「三つ葉葵」といえば
徳川家の用いた「丸に三つ葉葵」のたぐいの紋を指すことが多い。


葵紋



葵紋の一例(二葉葵)


葵紋(あおいもん)は
ウマノスズクサ科のフタバアオイを図案化したもので、
フタバアオイの通常の葉の数は2枚である。

3つの葉をもつフタバアオイは稀で、
三つ葉葵は架空のものである。

葵祭に見られるように賀茂氏の象徴であり、
葵紋は賀茂神社の神紋(二葉葵・加茂葵)になっている。

その賀茂氏との繋がりが深い三河国の武士団は、
葵紋を家紋としてきた。

これにより三河武士である徳川家が
葵紋を使用していることは、
徳川家が清和源氏の末裔ではなく
賀茂氏の末裔ではないかとの説の根拠ともなっている。

『見聞諸家紋』では、
丹波国西田氏の二葉葵が載るが、
この西田氏も賀茂神社の氏子であるのが
葵紋使用の由来である。


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豊臣家が滅んだ後、
徳川家康の権威が上がると
徳川家使用紋の葵紋は特別な家紋ではなくなった。

家康が征夷大将軍となった後、
次第に他家の三つ葉葵に限らず
葵紋の使用がはばかられるようになり、
松平家へは遠慮させ、
伊奈家には禁止させているが、
徳川家家臣である本多家や
准家門の鳥取池田家のように 
一部葵紋の使用を許されることもあった。[1]

また、この制限によって、
葵紋の形状に倣った紋を
河骨紋と称して用いる一族や家が現れたと考えられている[2]。

このように徳川将軍家以下一門に制限されていたというが、
江戸初期では御用商人の長持などの道具に描かれていたという。

また、正式に制限されたのは、
享保8年(1723年)のことである[2]。


天皇家は足利家、織田信長、豊臣秀吉の例に倣い
桐紋を徳川家にも与えようとしたが、
徳川家はこれを固辞したため、
葵紋の権威が上がったともいわれる。


三つ葉葵


外郭が、「丸輪(丸)」であるもののほかに、
「隅切り角」や「隅切り折敷」
(守山三つ葵・西条三つ葵など)のものや
「五環」、「菊輪」であるものもそういう。

いずれも、徳川一門の使用紋であるが、
御家門や御連枝などの松平家の中では
替紋の蔦紋や五三桐、
唐団扇などを使用することがあった。

ほかに葉の裏を使ったもの
(丸に三つ裏葵)などの多くの変種がある。


由来


由来には、
本多家に由来する説と
酒井家に由来する説、
松平家の元々の家紋であるとする説、
などがある。


『日本家紋総覧』には、
『改正三河後風土記』より酒井家に由来する説、
『本多家譜』より本多氏と交換したという説、
『三河後八代記』の「本多氏覚書」より
家康が自ら考案したという説、
ほかに松平氏を継ぎ、
その家紋を踏襲した、
という説を掲載している。


平岩親吉著とする『三河後風土記』は
酒井氏を由来としている。

その、三河後風土記を幕府の儒学者である
成島司直が天保年間に校正した
『改正三河後風土記』には、
家祖が賀茂の社職であったという
本多中務大輔家(本多忠勝の家系)より
徳川家へと献上されたものとしている[3]。


『柳営秘鑑』「葵之御紋来由」には、
文明7年7月の安祥合戦のさいに、
酒井長衛門尉氏忠が丸盆の上に葵の葉を3つ敷き
その上に熨斗、栗、昆布を盛って3代松平信光に献上しことにより
合戦にて勝利をおさめたことから、
酒井家の紋とするように下賜されたが、
のちの5代松平長親の時に
松平家の家紋として定めたため、
酒井家には図案が似た酢漿草紋が下賜されたとある。

『酒井家世紀』には、
三つ葉葵を召し上げた代わりに、
三つ葉葵の図案に似せた酢漿草紋を与えたとある。

徳川幕府家譜も同様である。
(徳川信光を読め)


『岡崎市史』は、
もともと松平太郎左衛門家の紋であるとしている。

また、松平親氏・泰親が松平村に入った後、
賀茂明神に祈願し家紋とした、
または、
松平氏が賀茂源氏または賀茂朝臣と称して葵を家紋とした、
という説を挙げている。

『徳川世紀』には、
三河国加茂郡に移り住んだ松平親氏の子孫が
「加茂朝臣」を名乗り巴形に描いた葵紋を家紋としたとある。


『藩翰譜』(新井白石)の伊奈本多氏の項によると、
7代松平清康が吉田城ならびに田原を攻める際に、
宝飯郡伊奈の本多正忠が味方し、
正忠が伊奈に清康の凱旋を迎えて饗応したさいに、
3つの水葵(ミズアオイ)の葉に肴を盛って出したことを清康は喜び、
清康は本多家が味方したことで勝利を得たことを吉例として、
本多家の家紋であった「三つ葵」を召し上げたとしている。


『御先祖記』は、
松平家は立ち葵を用いていたが、
徳川家康が永禄3年(1560年)に
本多家の「三つ葉葵」を旗紋としたことで、
それをはばかって本多家は立ち葵に改めた、としている。


〔1〕徳川葵(江戸初期)



徳川家康から後3代家光までが使用した図案

〔2〕酢漿草紋



「丸に酢漿草」


図案


徳川一門の三つ葵


徳川将軍家、徳川御三家(尾張徳川家、紀州徳川家、水戸徳川家)では、同じような「丸に三つ葉葵(まるにみつばあおい)」を用いる。徳川宗家の使用する三つ葉葵を徳川葵(とくがわあおい)という。丸に三つ葉葵と徳川葵は、「丸」と「茎」とする部分が一体であるものとして区別することがある[4]。

御三家それぞれでは、葉の模様(芯)の数の違いなどがある。同じ将軍家のものでも徳川三代までが一枚あたり33本で徐々に減っていき慶喜の時には図〔4〕のように13本になっている。また、綱吉、吉宗は、図〔7〕(会津葵)のように、河骨の葉の図案に似た葉を用いている[5]。

その、会津葵(あいづあおい)は、特に会津松平家が用いた。徳川宗家、御三家の三つ葉葵の紋とほぼ同じ図案であるが、3枚の葉はオリジナルの葵(フタバアオイ)の葉の図案ではなく、似た図案の家紋である河骨紋(図〔9〕)の葉に似る。ちなみに、河骨紋としては「丸に頭合わせ三つ河骨」といい、会津葵よりやや細身の葉の図案を用いることが多い。

丸に三つ裏葵(まるにみつうらあおい)(図〔8〕)は、三つ葵の葉脈を省略した図案である。徳川御三家が、軍旗の旗紋として用いた。ほかに、徳川忠長の墓地に見られる。江戸中期の随筆『塩尻』には、徳川家康が徳川御三家に対して家紋の図案について触れ、水戸徳川家について裏葉3枚で三つ葵をつくるように命じたとある[6]。


〔3〕徳川葵
尾州三つ葵や水戸三つ葵に近い図案


〔4〕徳川葵(江戸後期)
13本芯の葉の図案


〔5〕水戸三つ葵の例
(水戸徳川家)


〔6〕尾州三つ葵の例
(尾張徳川家)


〔7〕会津葵


〔8〕丸に三つ裏葵


〔9〕河骨紋の「三つ河骨」

立ち葵

立ち葵(たちあおい)は、三つ葉葵と同様にウマノスズクサ科のフタバアオイを図案化したものである。ちなみに、アオイ科の多年草であるタチアオイとの関連はない。

図〔10〕は、「二葉葵」の右側に1つの葉があることにより、「右離れ立ち葵」(みぎはなれたちあおい)ともいう。この図案のものは、長野善光寺が用いている。また、丸で囲んだものを「本多立ち葵」(図〔11〕)といい、おもに本多氏が使用した。

ほかに、下部に流水を描いた「立ち葵に水」、2つの葉の間に花を描く「花立ち葵(はなたちあおい)」などがある。フタバアオイとは別の植物で水草のミズアオイを図案化した「水葵(みずあおい)」も「立ち葵に水」と同様に描かれるが、2つの花を描き、葉の図案には「裏葵(うらあおい)」を用いる。特にミズアオイとフタバアオイは、ほとんど区別されていなかったこともあり、こちらも葵紋に含む。






☆†タチアオイの花言葉†★ |KO KO RO
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属名のAlthaeaは、
ギリシア語の「altheo(なおす)」が語源となり、
昔この属が薬草として用いられていたことに由来します。


英名のHollyhock
(ホーリーホック、聖地の花の意味)は、
12世紀頃、
この花が十字軍によってシリアから運ばれてきたことに由来するといわれます。