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イザナミ 生まれる 宝物




衣通郎女


応神天皇の皇子の
稚野毛二派皇子
(わかぬけふたまたのみこ)「記」では
若沼毛二俣王とある。

応神帝の皇子で母は、
「紀」では日本武尊の孫・
河派仲彦の娘・弟姫。

「記」では咋俣長日子王の娘・
息長眞若中比賣。

その娘の忍坂大中姫、
衣通郎女は允恭帝の后妃になっている。


忍坂大中姫
(おしさかのおおなかつひめ)
第19代允恭天皇の皇后であり、
木梨軽皇子(允恭天皇の皇太子)・
第20代安康天皇・第21代雄略天皇の母。

父は稚野毛二派皇子
(応神天皇の皇子)。
母は弟日売真若比売命
(日本武尊の曾孫)。
意富富杼王
(継体天皇の曾祖父)の同母妹。

父:稚野毛二派皇子
母:弟日売真若比売命
同母兄:意富富杼王
同母妹:衣通姫
夫:允恭天皇
子:木梨軽皇子・名形大娘皇女・境黒彦皇子・安康天皇・軽大娘皇女・八釣白彦皇子・雄略天皇・但馬橘大娘皇女・酒見皇女


衣通姫
(「そとおしひめ」または「そとおりひめ」と読む)は、
和歌三神の一人として和歌の世界の中で
知られている古代の女性である。

古代史の中で最大級の美人の一人である。

日本書紀が、
その美貌を讃えている女性と云うと、
まず第一に挙げられるは
継体天皇の母振媛(ふるひめ)であるが、
それにも勝る美人がこの
衣通郎女(いらつめ)であり、
書紀は、
顔かたちすぐれて比ぶものなし。
その艶(にお)える色は衣(きぬ)を徹(とお)り
て照れり。
このゆえに時人(よひと)衣通の郎姫(いらつめ)と名付けて云えり。
(容姿絶妙無比、其艶色徹衣而晃之、是以時人号曰衣通郎姫也。)
と賛辞を呈している。

 すなわち、、
衣通姫」と云うのは本当の名前ではない。
美しい肌の色が衣を通して照り輝いたので、
人々がその美しさを讃えてこのように呼んだものであると云う。
 

 では、本当の名前はどうなのか。

諸本の記すところは、
①「とうしのいらつめ」
登富志郎女:応神記)、

②「ふじわらのことふしのいらつめ」
藤原琴節郎女:応神記)

③「ふじわらのことふしのいらつめ」(布遅波良己等布斯郎女:上宮記逸文)

④「そどうしのいらつめ」
(衣通郎女:允恭紀)

⑤「おとひめ」
弟姫:允恭紀)

これらを見れば、
①の
とうしのいらつめ」が本当の名前と思われる。

②と③の
ふじわらのことふしのいらつめ」は飛鳥の藤原の里に住んだためである。

④は
その美しさを讃えるために、
本当の名前から転じて呼ばれたものである。

⑤は忍坂大中姫の妹であるためである


允恭天皇

たいそうよろこんで、
衣通郎姫そとほりのいらつめ
(允恭天皇皇后忍坂大中姫妹)をとりわけ寵愛しました。

これを姉后(忍坂大中姫)が妬んで、
宮を別に造り衣通郎姫を住まわせました(藤原宮。現奈良県橿原市)。

允恭天皇四十二年間帝位に即かれて、
お隠れになられました、
新羅より毎年、船八十艘に様々の貢物を積んで、
楽人([音楽を演奏する者])八十人とともに来朝しましたが、
允恭天皇がお隠れになられたと聞いて、
たいそう嘆き悲しみました。

難波津より京(遠飛鳥宮とほつあすかのみや。現在奈良県高市郡明日香村飛鳥?)まで、貢物を持って参り置いて帰りました。

この後はわずかに
船二艘ばかりが来るだけでした。

また、来朝しない年もありました。


応神天皇の妃

妃:迦具漏比売(かぐろひめ) –
須売伊呂大中日子
(稚武彦王王子、日本武尊孫)王女
川原田郎女(かわらたのいらつめ)
玉郎女(たまのいらつめ)
(忍坂大中比売) –
以下の2皇女は
稚野毛二派皇子の女であろう。
(登富志郎女) 
迦多遅王(かたじのみこ、堅石王)

天武帝は新たに「八色の姓」を制定したが、
その最上位にある「真人」に選定された13氏族のうち、
応神帝の皇子を祖とするのが3氏族
(羽田公、息長公、山道公)

継体帝の皇子を祖とするのが3氏族。
(三国公、坂田公、酒人公)

宣化帝の皇子を祖とするのが2氏族。
(丹比公、猪名公)

敏達帝の皇子を祖とするのが2氏族。
(守山公、路公)

用明帝の皇子を祖とするのが1氏族。
(當麻公)

系譜未詳が2氏。
(高橋公、茨城公)

こうして7世紀後半の有力氏族を眺めてみると、
系譜が応神帝までしかさかのぼれないことがわかる。

応神帝の皇子を祖とする3氏族は全て、
稚野毛二派皇子(わかぬけふたまたのみこ、記では若沼毛二俣王)を祖としている。

稚野毛二派皇子は継体帝の曾祖父または曾々祖父とされている。

つまり、天武朝においては
稚野毛二派皇子を源とする系譜が大きな勢力を占めていたことになる。


衣通郎女

応神記には若野毛二俣王
(日本書紀の稚野毛二派皇子)は
母(咋俣長日子王の女、息長眞若比賣)の妹の百師木伊呂辨(ももしきいろべ、
亦の名:弟比賣眞若比賣命)を娶って、
大郎子(亦の名:意富富杼王)、
次に忍坂の大中津比賣命と続き、
男女合わせて7王生まれているが、
衣通郎女はその中に入っていない。

允恭紀では衣通郎女は、
皇后忍坂大中姫(同母姉)の嫉妬の対象になって苦労するのだが、
允恭記では、役回りが全く変わってしまう。

今度は皇后忍坂大中姫(同母姉)の次女。

允恭帝の嫡子木梨軽王の「親親相姦」の相手、
同母妹軽大郎女の亦の名として衣通郎女が出てくる。

古事記には原注で、
「御名を衣通王と負わせる所以は、
その身の光、衣より通り出づればなり。」
とあり、
古事記でも絶世の美女として描かれていることに変わりはない。

紀では、同母姉から嫉妬の目でにらまれ、
記では、同母兄から近親相姦の相手にされてしまう。


韓人・奴理能美(ぬり・の・み)

「調連  百済国、努理使主後也。応神天皇御世、帰化。孫、阿久太男、彌和。次、賀夜。次、麻利。彌和、顕宗天皇御世、蚕織献?絹之様。仍賜調首姓。」
「河内国諸蕃に、「調日佐  同水海連 (百済国人、努理使主之後也)」
「東漢氏の一族の調忌寸とは別氏である。」

『古事記』仁徳記で奴理能美、『新撰姓氏録』では
百済人・努理(利)使主
調連日佐(つきの・むらじ・ひおさ)、
水海連(あまの・むらじ)の祖。

「ぬりのみ」は「ぬりの・おみ」である。
「おみ」というのは名前であろう。

使主と書いて「おみ」という名を持つものはほかにも多い。

「ぬり」とはどういう氏姓かは知らぬが、
仁徳の頃、山背の筒木(筒城)に住み、
養蚕と絹織物で富豪となっている。

先のかぐや姫記事に書いた
磐之媛(石之比売)が仁徳の浮気で山背に逃避行し、
ヌリノミの屋敷にかくまわれたという。

記事では筒城宮に入ったとあるが、
おそらくのちの筒木宮域内にあった
ヌリノミの屋敷であろう。























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